境界空間 仮説での最大の疑問

弧理論(Ark Theory)における 境界空間 の仮説とは、宇宙の成り立ち(自然)を説明する仮説です。岡潔は物質的自然(自然科学者が考える自然:時間空間)について、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。

岡潔によれば、自然科学者は「初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがある」と考えています。そして、運動と時間は比例すると決めてかかっているといいます。しかし、角度から作った時間は量ではありません。何故なら角度は量ではないからです。

では、空間とは何かということです。自然科学者は空間について、自明として議論が始まっていますけれども、それではダメです。 岡潔は山崎弁栄上人の言葉をひいて、自然は心があるために映写される映像だとして、自身は”少なくとも一部は映像だと言ってよい”と肯定しています。(【3】西洋の唯物主義

 

当サイトでは、いろいろ検討すると自然は映像だと考えざる得ないという結論に至りました。

  • 小さな領域では現象が離散的に現れる。スマホやモニター画面を見ればわかる通り、動画は離散的に表示される。現象が離散的なのは映像である傍証と考える。
  • ある科学者の言うように、小さな領域での現象を「粒子で波動性の二重性を持つ(確率波)と定義せざるを得ない」というのは、受け入れがたい。理由として、量子力学のモデルは心に描けないから。数学に特化したごく少数人にしかわからない。これは致命的。例えば、電子が物(粒子)と事(波と確率)として現れる映像(結果)だとすると合理的に解釈できる。
  • 重力レンズは空間のE軸方向への歪みではないか?(相対論は量ではない時間をパラメーターとしていて、光速度不変は物差しとして不適切。)
  • 理論体系全体が量ではない時間をパラメーターとする循環になっている。
  • 相対論の結論としての空間の特異点(ブラックホール)や多元宇宙などという極端な妄想(抽象)は排除される。
  • 場の量子論と相対論的宇宙との統合に百年以上取り組んで、その理論的な結論がループ、あるいはネットワークであるのは、言葉が持つ本質的な限界(第1の心)の現れだとわかる。つまり、理論的な行き止まり。勿論、数学も言葉であり、言葉の限界の内である。
  • 何より、理論体系全体は既に具体ではない。実験や観測で確かめることができない抽象理論に過ぎない

図1 事(運動)は両端に広がり、抽象に至る

 

上記の理由で、弧理論の前提は次の通りになります。

  • 自然は別の次元軸上(E軸という)にある何か(実体という)からの投影による映像(M軸という)である。

自然がE軸からの投影による映像(M軸)であるならば、空間とは何かの説明ができます。これが境界空間の仮説です。次は仮説による模型です。

gif1 青い水と灯油の境界面を示す模型

上の模型において、次元を一つ上げると二次元平面から三次元の空間になります。空間とは自明ではなくて、物質(模型ではアワ)があるから空間がわかるのであって、映像であるならば、”空間は自明ではない”となります。岡潔が言ったように”本当に実在するのは心だけ”です。我々がわかるのは模型で言えば、灯油と水だけです。境界面(空間)はありません。灯油と水があるからアワ(物質)がわかるのです。そして、模型のとおりアワ(物質)に内部構造はありません。物質は(陽子・中性子・電子)の3つだけです。自然科学者は、その他素粒子について、粒子と名付けたり、量子と名付けて”物”としていますが、物ではなく事(波の一種:孤立波)です。

仮に仮説の通りならば、宇宙の根源たるE軸において、エントロピーの増大は決してありません。だとすると宇宙の始まりも終わりもないことになります。この真のエネルギーの意味に気(キ)づいたことは、自身は最大の発見だと感じます。

 

なかなか本題にたどり着けません。 境界空間 の仮説を影絵に例えます。

写真1 出展:インドネシアのワヤン・クリ(影絵芝居)失念

影絵には人形の影とともに光源が映っています。スクリーンを空間とすると人形が物質です。そして、光源がひとつうっすらとあります。

どうも、宇宙の中心はE軸上に2つありそうです。だから、空間ができます。その中心からの影が空間に出てきていると考えます。これが暗黒物質暗黒エネルギーと考えます。宇宙の大規模構造の原因です。

つまり、影絵の場合は光源が一つですけれど、宇宙での影(物質)にかかる光源は二つ(暗黒物質と暗黒エネルギー)です。これはgif1にある境界空間の仮説を説明する模型では説明できません。灯油と青い水の模型ではポテンシャルが一つしか表せないのです。今のところ、解決策は思いつきません。

 

何故か、自然の仕組みがどのようであるかが日常の生活(具体)の内にあるのか疑問でした。例えばgif1のような模型です。どうも、自然が繰り返しの構造を持っているからのようです。例えば、植物の葉の葉脈です。

写真2 出展:葉脈

あるいは指です。

写真3 出展:

親指を除いて、一本の指だけを見てみると、人差し指か中指かの区別はつきません。いずれも繰り返しがあります。

この自然にある繰り返しが自然の仕組みの細部での現れだとすると日常生活の中に自然の仕組みを理解するヒントがある理由が何となくわかります。

 

話が脱線しました。とにかく、宇宙の大規模構造を考えると境界空間の仮説の模型では肝心の暗黒物質と暗黒エネルギーという2つのポテンシャルの説明ができません。悩むところです。

因みに、宇宙にある暗黒物質と暗黒エネルギーによる構造とともに我々にとって宇宙が外のない内であると感じたきっかけはG・アダムスキーによる足跡の図からです。

図2 足跡

研究を開始した当時、足跡の輪郭について、「宇宙の外について、一切言及していない」との感触を持っていました。この感触をうまく説明する言葉が見つかりませんでした。

2015年ころ岡潔と並んで山崎弁栄上人を知り、山崎弁栄記念館の資料から「外のない内」を知りました。足跡の輪郭は”外のない内”を示していたのです。
我々を取り巻く宇宙の姿の本質は、空間の大きさや小ささの内にあるのではありません。ましてや空間の部分である場の元とされる素なる領域素なる時間などまったくの見当違いです。どうみても、自然は映像です。

宇宙をどのように捉えるか、極小領域についてどう考えるかは、我々の心の仕組みと働きに起因します。G・アダムスキーがコンタクトしたとされる異星人は、心の仕組みと働きを我々より深く知っています。宇宙人がいるかいないか、UFOがあるかどうかの議論などまったくもって不毛です。ましてや写真やコンタクトストーリー、遺物や破片などの証拠とされるものは、固定観念を持った人に対して何の説得力もありません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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