時制と仏教の 因果

昨年より、機会があって仏教について調べてきました。調べたのは以下です。

  • 唯識
  • Buddha
  • 仏 (善導大師)
  • 覚 (善導大師)
  • 情 (岡潔)

唯識については、2021年7月7日「唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。」としました。けれども、繰り返しがあるから、即、正しくないという訳ではないようです。繰り返しが出てきたら行き止まり(抽象)だというのが正しいところです。

2021年5月12日『「仏」と善導大師の「覚」、そして 岡潔 の「情」』にある図で説明します。

図1

岡潔は「情・知・意」の順に働くとしました。まず、何となくその趣がわかり(的にわかり)、的に言い表す。(言葉で言える)そして、が働くという順です。

に相当するのが善導大師の示したであり、です。その覚は5つの器官よりきます。だから、視なのです。何となくその趣がわかり、その次にくるのが知と意です。

唯識は情あるいは仏、覚より後に来ます。言い換えると唯識とは、心の仕組みと働きわけることによりわかろうとする行為です。(言葉で言い表そうとする。)だから、繰り返しが現れるのです。

そもそも”何となくその趣がわかる(映像がわかる)”という説明の仕様がない何かを言葉で言い表すことなど本来的にできないものをあえて言うならば、Buddha、仏、覚、情と仮に言い表したにすぎません。それをあたかもわけることによりわかるとする唯識は間違いなのです。あくまで知は後です。岡潔の名付けた第1の心の内です。これを岡潔自身勘違いしました。(晩年、唯識に嵌ったようです。)

岡潔が言ったように「人は言葉でわかっているのではない(第2の心)」のです。言葉で言えない何かをあえて別の言い方をしたのが如来です。

幾つもの言い方があるのは、言葉が形式だからです。世界で言葉が数百以上あるのは言葉が形式だからです。繰り返します。人は言葉でわかっているのではありません。言葉は循環でネットワークで外のない内です。

 

上記を時制(時の現在・過去・未来)に当てはめて考えます。【5】情の特色より。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

時の現在は常に新しい現在に置き換わります。過去は記憶(情報を蓄える働き)がなければ、現在しかなく過去はありません。第1の心と第2の心には情報を蓄える仕組みと働きはないので、肉体が必要になります。

図2

仏教に” 因果 ”というのがあります。は原因ですので、図2で言えば(ア)です。それ以外はすべて過去(記憶の内)であって、これが果(結果)です。

図3

時で言えば、現在は「Buddha、仏、覚、情、第2の心(意識を通さず言葉で言えないがしかし、その趣がわかる)」であり、因です。ヲシテ文献では心の本体であるタマに相当します。 過去は「意識を通し言葉で言える第1の心(わけることによりわかる)」であり、果です。ヲシテ文献では生命維持の欲求であるシヰです。シヰは欲しい欲しいのシヰで、強いるのシヰです。ですから、ヒトはタマとシヰに物質である肉体が必要なのです。

因みに第1の心は、知識と意識であって、言葉で言い表せる私心です。この心はすべてを覆っているがそれより外へは決して出ていない心です。【1】2つの心より。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

 それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。

「私は悲しい、私は嬉しい」のところがシヰです。「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」というのが何度もご紹介した「外のない内」です。

因みに、言葉で言い表す”数”として時間があります。時間は時の現在を含みません。過去です。ですから、時報は過ぎてからしか知りえません。また、”時間という計量的なものは無い”のは、時間を角度から作るからです。”数”には2種類あります。

  1. 数は物の量のかげ
  2. 数は事の質のかげ

角度は事の質であって、物の量ではありません。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。

本記事が成り立つ(合理的な説明ができる)のは、自然が映像だからです。人の心の本質は(論理として)決してわかりませんし、言葉で言い表せるものではありません。Buddhaや情や覚、あるいは、如来なども仮に言い表したものです。映像だとすると時間感覚が説明できそうです。また、数式に時間としてt=0を代入することの意味についての記事です。図2、3で現在に近づこうとしているというのと同じです。数式は時の現在を含みません。数式自体が”果”に過ぎません。参考まで。

 

言葉で言い表した後、知識の後、意識として善悪が来るようです。数で表した後、大きい小さい、多い少ないがはっきりわかった後、大きいほうを欲しいとなります。誰かが大きい方を持っている。あるいはより多く持っていると欲しいや羨ましいなどとなります。これがシヰです。岡潔が言ったわたくしという心です。 どうも仏教は知識意識の方に重きが置かれているように思います。仏教は、後ろ向き後退というか、あまり、希望がないというか、厭世的というか、どちらかというと禁欲的なイメージを持っています。最近。

一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

仏教が唯識に侵されているならば、納得です。唯識は第1の心の現れということになります。浄土教が一神教に見えてしまいます。南無阿弥陀仏の阿弥陀、ことに阿弥が怪しいです。 心の仕組みと働きへの理解なくして科学はありません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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