適切な「基礎」を用意しないと、私たちの文明は終わる

前回記事の続きです。

昨年より当ブログで何度か取り上げてきた3つの科学、『精神科学社会科学物質科学』について、ある科学者は次のように述べています。

宇宙における科学のすべて、真実の探求と理解の追求のすべては、この三つの分野の中に入るんだ。もちろん、この三つの分野の間には明確な分離線を引けない。お互いにラップしているからだが、しかし、それらを支配する基本的な法則は全く同じものなんだ。

宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するならば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかしながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ物質科学の発達はありえないんだ。

強調は管理人による。 ある科学者が文明の発展には3つの科学が必要だと述べており、自然科学(物質科学の一部分)だけでは基礎として不十分だとしています。

ある科学者は、文明の発展を建築物に例えて、次のように述べています。

「新しく大きな建物を建てるときに」とアランが答えて「計算違いによって、基礎ができあがった建物を支えるのに十分強くないということを君が発見したとしたら、すでに建っている建物の一部を切り取って問題を解決するかい?そんなことはしない。基礎を大きくし、強くする方法を探すのが論理的な進め方だろう。

物質科学の進歩を止めることなどできやしない。それは進んだりもどったりはするにしてもだ。もどるとすると、それを支えている要素は退化のプログラムによってまず弱くなってきてそして崩壊することになる。

基礎的には地球の物質科学に悪いところはないんだ。もし、人々がそれを支えることができるような基礎を用意しないとそれは夢想だにしなかったほどに水平に広がって進歩してしまう。」

もし基礎がなかったら?」と私は言った。

「君たちの文明は終わるさ」とアランがゆっくり答えた。「ほんの少しの生き残りを残して全滅するんだ。生き残ったものは彼らの科学と技術を再建する能力はないだろう。数世代の間に、彼らの子孫はほとんど動物のレベルにまでもどるだろう。進化の過程はふたたび始まるだろう。一万から一万五千年で他の文明と技術が起こってくるだろう。そして彼らも同じ運命に落ちる。宇宙の不変の法則なんだ。君にはわかると思うが、人類の自由選択によってなされるものなんだ。

地球の人類と文明は絶滅を宣告されてはいないんだ。人類はこの危険を永久に自分たちの後ろに追いやるまで進歩の道を進み続けるだろう。この選択は君たちのものさ」

管理人は、上記の3つの科学『精神科学社会科学物質科学』は、縄文哲学の核心部分と同じだと結論づけました。 ある科学者の基礎を用意すべきという「基礎」に縄文哲学が最有力だとの考えです。 『精神科学社会科学物質科学』がミクサタカラ(タマ・カガミ・ツルギ)だとの意見です。

 

前回の記事において、我々の文明は、

図1

の低い右の枝の様だとしました。 人々の欲望(神頼み)を具体的な物(豊かさ)の「量・嵩」に対応させる為に(手指の数を元にした10進数)により表したのは自然の成り行きでした。その結果、人々の欲望の形代としてお金が用いられるようになりました。これが物質科学の一部分である自然科学を進歩させる原動力でした。 これまでの考察により得た結論は、自然科学は「近似」だということでした。「自然宇宙」を自然科学で表現するにどこまでも誤差を生じるようです。 自然宇宙は、距離・大きさ[L]より角度θが重要であり、角度を12の倍数で扱いつつ10進数に拘る現在のやり方に無理があると考えます。


ところで、大陸や半島から人々がやってくる前から、日本列島に縄文哲学は存在し、人々は高い精神性を維持していました。

図2 出典:ホツマ縄文日本のたから池田満著展望社p13より一部加筆修正

しかしながら、縄文哲学は、渡来した人々を含む当時の人たちの欲望からくる(神頼み:シャーマニズム)を退けることはできませんでした。 当時、人々の神頼みを避けられなかったのだから、たとえ現代に縄文哲学を持ってきても、ある科学者が述べた「基礎」にはなり得ないだろうと考えます。  ある科学者は重要なことを述べています。

3つの科学「精神科学・社会科学・物質科学」を支配する基本的な法則は全く同じもの

だというのです。

ですから、縄文哲学の核心であるミクサタカラ(タマ・カガミ・ツルギ)を再編し、『精神科学社会科学物質科学』を合理的かつ統一的に解釈出来るモデルを作成することが必要だと感じます。

ですが、既に管理人として結論が出ています。

E軸上の実体が原因。物体は結果。

図3

管理人には、E-M軸平面に最初から3つの科学が含まれているように感じます。最初は抵抗がありましたけれど。

非科学的、都市伝説、トンデモ、あっち系などという自然科学(として扱える対象)以外を除外する行為は、自然科学の限界を自ら証明していると感じます。 「五感でわかるもの以外無いとしか思えない」としながら単独で取り出せない物質?を議論する矛盾に気付かないのです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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