なぜ 縄文 の話が必要なのか?

2月頃から、動画の制作を続けてきました。内容は当サイトで書き綴ったまとめです。すべては「人に心が2つある」と知ってもらうためです。そこからしか何も始まらないとわかっているからです。

縄文 時代から、日本の人々は「心が2つある」ことを熟知していました。タマシヰのタマは心の本体であり、シヰは生命維持の欲求です。欲しい欲しいのシヰです。強いるのシヰです。漢字の魂では、全部抜け落ちてしまいます。日本人の心は漢字にはありません。ヲシテ文献にあるのです。

自然がどのようにできているか、あるいは心の仕組みと働きは、カミの仕組みとタマシヰにより説明できます。肝心なのは、仏教やその他の資料と完全に整合がとれていることです。

 

ここのところ、田中英通氏や茂木誠氏の動画をよく見ます。

動画 田中英道×茂木誠★なぜ縄文の話が必要なのか?『日本とユダヤの古代史&世界史』

この動画を観て、さもありなんと感じました。日ユ同祖論ではありません。日本人が日本人であることの起源は日本語にあります。遡って、日本語の起源はアワウタにあります。今回、制作中の動画のタイトルは『17創造と発見の仕組み(3)「それは弛緩と関心の外からやって来る」』です。50分にもなってしましました。

どう考えても日本語は最強です。いくら考えても縄文時代の人達にかないません。

 

それから、原罪とは何かを考えています。原罪とは言語であることは間違いないのですが、アワウタとその他の言語との違いがよくわかっていません。アワウタには無駄がない感じがします。ほかの言語では「抽象→呪術や悪魔教?」などが残ってしまうように思うのですが、まだわかりません。

  • 小室直樹氏による日本教の特徴 → 神様や仏様より人間の都合が優先する

人間の都合が優先するという特徴はアワウタからでてくるとは思いますが、日本人が抽象化が不得意かというと、そうでもないような。よくわかりません。

他の言語では、二項対立から抜け出せないようです。止揚できない? 彼らに如来はわからないようです。本当は善でも悪でもなく、そういう仕組みがあるということが彼らにはわからないようです。唯物論と還元主義では、止揚は不可能です。

  • 如来 「人格性はない」→ 善は悪の如し、悪は善の如し、右は左の如し、左は右の如し、神は悪魔の如し、悪魔は神の如し、・・・・・
  • 如来と岡潔の「自然数の1は決してわからない」は同じ意味 「1は0の如し、0は1の如し」互いに規定し合って成り立つ繰り返し。10進数でも同じ。言葉の仕組みそのもの。

 

Follow me!

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  

Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 解説 タグ: , , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA