なぜ、「言語の数」と「 宗教の数 」はこれほどに多いのか

ネットで調べますと世界の国の数(国連加盟国数)は196か国で、世界の言語の数6900くらいのようです。また、世界の 宗教の数 確かなことは不明ですけれども、日本国内だけで181、810(宗教年鑑平成27年度版)もあるようです。

図1 出展:宗教の分布と信者の人数が一目で分かる地図

図2 出展:宗教とは(Religion)

 

これまでの考察をもとに世界に言語と 宗教の数 が多い理由をあげます。ただし、人に心が2つあることをわかっておられない方にご理解いただきにくい内容です。

  1. 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク、かつ外のない内である。
  2. 人のに限界がある。(岡潔 ”情・知・意”の順に働く)
  3. 岡潔 「すべてを覆っているが、外へは決して出てない。」
  4. 言葉の持つ特性から、人は言葉でわかっているのではない。
  5. 自己という存在を否定する者はいない。
  6. 自己の存在について、在るのは確かだが、それが何かは決してわからない

世界に言語が多数あるのは、1.によります。人の知識と意識は、自然を思考するにすべてを覆っていますが、「それより外へは決して出ていません」何故なら知識と意識は外のない内だからです。つまり、人は言葉を使いますが、人は物や事を言葉でわかっているのではないということです。サイト内を「匙とスプーン」で検索ください。

ところで、貴方はあなた自身の存在を認めているはずです。自己の存在を否定する人はいないでしょう。「わかる」というのには、2つあります。岡潔の言う2つの心です。岡潔は第1の心、第2の心と言いました。

  1. 第1の心。理解、物の理ことわり。私わたくしというもの入れなければ、決して働かない心。わけることによりわかる。還元主義。わかり方は、意識を通し言葉で言える。
  2. 第2の心。情的にわかる。何となくその趣おもむきわかるわかり方は、意識を通さず言葉で言えない。

第2の心がなければ、一切は存在しません。これが自身の存在です。この存在(岡潔の言う”情”)がなければ、一切は存在しません。ですから、在るのは確かですが、それが何かは決してわかりません。その起源がどういったもので、どこから来たのかについて、岡潔は【8】大宇宙の本体は情であるし、【10】大宇宙の中核は真情だとも言っています。

補足です。岡潔の言った”情”は、唯一ではありません。何故なら1.の「言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク」だからです。言語の数が多い理由のとおり、”情”は日本語の漢字表現であって、その他の言語でもいろいろな表現が可能です。2進数で言えば、1はゼロでない数で、ゼロは1でない数です。数は互いに規定しあって成り立つ循環ですから、1は決してわかりません。ただ、数には2種類あって、物の量のかげであり、事の質のかげです。

 

結局、心の本体を如何様に表現することも可能です。ヲシテ文献のタマ、フトマニにあるアウワの「ア」でも、Buddha、善導大師による”覚”でも同じです。いろいろな表現が可能で、在ることは確かですけれど、それが何かは決してわかりません

以上の理由から、世界には多数の言語があり、多数の宗教があるわけです。世界の宗教のそれぞれに示された神仏?には、宗教を始めた人の考えた何かがありますけれど、それが何かは決してわかりませんし、そのほかの表現も可能なのです。

それにしても、宗教は政治に利用されていることが問題です。唯一、自分たち(のみ)が正しいというのは誤解です。それぞれに正しい何かが含まれていて、すべてを覆っていますが、それより外へは決して出ていません。ローマ教皇がクリスラム(Chrislam)という言葉を使って3つの宗教の統一を促しました。これなど中身がない無駄なことです。サイト内を”クリスラム”で検索ください。6件の過去記事があります。

 

心が2段階の構成になっていることを例で示します。(過去記事の再掲。)

かなり昔、テレビのインタビュー番組において、女子プロテニスプレーヤーの沢松某女子が応えていました。(たぶん、沢松和子氏か沢松奈生子氏のどちらか。)

沢松氏は当時、世界を転戦するトーナメントプロでしたから、世界の何カ所かにアパートを借りて、そこで自炊しながら練習と試合に臨むと述べていました。

朝、目覚めたときまず最初に「自分が地球の何処に居るかを思い出す」ことから始めると述べていました。

  • 何となく目覚める。
  • 何処に居るか思い出す。

まず、何となくわかる(第2の心で)のであって、その後、自分が何処に居るかわかる(第1の心)でのです。言葉で言えるのは後者です。

第2の心が第1の心を下支えしています。言葉で言える第1の心はすべてを覆っていますが、外へは決して出ていません。第2の心がなければ一切は存在しません。人が持つ”わかる”には2つあります。ヒトは言葉でわかっているのではありません。(ヒトは第1の心でわかっているのではありません。)

こうして考えると、世界のすべての宗教は、一つに帰納されるような気がします。何かあるのは確かですけど、それが何かは決してわかりません。どんなに教理経典、あるいは理論を詳しくしても得られるものは僅かです。詳しく(わける)ことによって行き着く先は抽象に過ぎません。誰もが神学論争だとわかっています。M理論など誰もついていけないし抽象に過ぎません。唯識に繰り返しが現れるから考えないのと一緒です。際限がない抽象です。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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