本当の 研究 をするには責任の伴わない環境が必要

管理人は、退職後に 研究 生活に入り今年で10年目です。右ガジェットの自己紹介の通り、次の資料を基に弧理論の研究を進めてきました。

  1. G・アダムスキーの遺したネガフィルムにある紡錘図形
  2. ダニエル・フライが伝えたある科学者の言葉
  3. ヲシテ文献に示されたヲシテ哲学(縄文哲学)の骨子(カミの仕組みと働き)
  4. 数学者岡潔の言葉

これら資料を組み合わせることにより、古より日本に伝わる哲学は、これからの科学を築く礎となると気付きました。 管理人は、資料となる1.~4.にかかるいずれの研究者の方からも常に部外者です。勿論のこと、学歴も学位もないし、学会にも所属していません。それ故に責任を伴わない発言・発表ができる環境にあると自覚してきました。

 

時折、見に行くフリーの物理学者である井口氏のブログに面白いことが書かれていたので引用します。『Q「英語の本を翻訳するっていう事をどう思われますか?」→俺「日本を豊かにすることだ!」

最近特に思うようになったことは、我々物理学者が本当に自分の頭で物理学を考えるようになれるのは、

還暦を過ぎてから=60歳になってから

ではないか、という気がするわけだ。

というのは、学者が大学の職員でいる限り、その学者さんは自分が学校の教科書として教える内容について否定的な見解を教育することは難しくなる。

ニュートン力学を今教えながら、そしてそれで試験をしたりしながら、

「実はニュートン力学は間違っているんだ!」

とは教えづらい。まあ、実質上不可能であろう。

また、今最も完全な理論が「一般相対性理論」と「量子力学」であり、その統合を目指しているさなかにあると教育している最中に

「実はエーテルが存在して、相対論は間違いだったんだ!

とは教えづらい。これまた実質上不可能だろう。大学の教程が崩壊してしまう。

同様に、いまそういういわゆる「標準的見解や標準理論に基づいて」研究論文を出して給料をもらっている学者が、それを疑うということはほぼ不可能だろう。

したがって、本当のリアルな現実理論を生み出そうとすれば、少なくとも

(あ)標準理論を教える立場にないこと
(い)標準理論で飯を食う必要のないこと

の2点が必要不可欠なことになる。

ということは、大学や研究職にいないか、やめるか、退職しているか、ということになる。

そう、研究で飯を食う必要のない状態であらねばなりませんし、誰かに阿おもねる必要があってはなりません。今も昔も科学者たちはパトロンに逆らうことはできません。

以前、「かの岡潔でさえ自らの立場を考慮しつつ、物理学者やその他自然科学者に幾分か配慮した説明をしていたのではないか」と記事にした記憶があります。 また、大学教授の1日について、24時間の配分を記事にした記憶があります。授業の準備や授業の後始末、学内の雑事に学内政治と食事と睡眠を除いた研究にあてる時間は、せいぜい2時間程度だった記憶があります。岡潔が云った「わからないものに関心を集め続ける」という態度など大学教授に望むべくもありません。

 

研究10年目にして、アウトライン(カミの仕組みと働きから物質【ウズ】の成り立ち)がわかってきたのは大きな成果です。

図1 アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの。ウとは渦(物質)。

正式な発表の場がないのは少し残念ですけど、管理人の研究が本当のことならば、時間はかかるが必ずその方向へ転がると確信しています。

岡潔が結論のみを云った「自然科学は間違っている」点について、概ね詳細がわかりました。ですから、自然科学の基礎(時間・空間というモデル)はより基礎的な「わかる」に置きかえられねばならないです。ヲシテ哲学は凄いです。日本語の基礎であるヨソヤコヱ(48音韻:アワノウタ)は凄いです。

最近、ことに思うのは「自然科学が見過ごした現象(意図して封印した現象)がきっと在るはず」と感じます。その現象は、人の肉体に備わった五感ではっきりわかるものです。そうでなければ、次なる発達はあり得ません。2014年1月27日の記事「物の理(ことわり)とは五感でわかること」の時点で、現代の物理学には何か欠けていると感じていました。 素粒子に本質が無いことは明白です。

ついでながら。加速器による素粒子実験は、例えばハーモニカの「ミ」の音波を計測して、「ミ」の音の質量を計算しているのに似ています。無意味です。

写真1

物質の質量と運動は、異なる次元にある実体の投影による異なる側面(映像)です。そして運動の一形態がです。素粒子という波を計測し、物理量ではない時間を含む数式にて質量に換算しています。無意味です。(GeV/c)ではダメです。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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本当の 研究 をするには責任の伴わない環境が必要 への2件のフィードバック

  1. shibuchin のコメント:

    お久しぶりです。
    今朝のニュースで
    「ハワイ・マウナケア山で新天文台建設反対のデモ続く。すでに13基が並ぶ先住民の聖地」
    すばる望遠鏡もそのひとつですね。

    ついでながら。加速器による素粒子実験は、例えばハーモニカの「ミ」の音波を計測して、「ミ」の音の質量を計算しているのに似ています。無意味です。

    「137億光年先の星が地球に与える影響」を先住民の人達に解りやすく説明するのは難しいのでしょうね、私にも良くわかりません。

    研究者と、利害関係のある企業などには大きな影響はあるでしょうね。

    正式な発表の場がないのは少し残念ですけど、管理人の研究が本当のことならば、時間はかかるが必ずその方向へ転がると確信しています。

    松本 善之助さんの「ホツマツタエ」の研究もそうでした、今でもトンデモ本扱いで書店では殆ど見かけませんが、ネットやアマゾンでは色々と見かけますよ。

    • Φ のコメント:

      >先住民の聖地
      知りませんでした。変化は仕方ないとしても、その方向でよいのかということです。天体を観測することの根本に何かすっきりしないものを感じます。電波の伝わり方に関して疑問を持っていますが、いまだによくわかりません。というのも電磁気現象の本質はベクトル・ポテンシャルにあるとされるのですから何かが変です。まず空間ありきという考え方は違う気がします。仮に別の次元軸があるとするならば、”伝わる”ということの本質が変わります。私は”位置を持つ”あるいは”持たない”と表現します。発散トーラスの一方は位置を持たないので全宇宙をカバーしているに等しいです。発散部分は”伝わる”という概念に該当しません。発散トーラスの”位置を持たない”という性質を利用するならば、位置AからBへ伝えるという行為は不要です。”在る”からです。例えば想念がそういうものならば、想念は伝わるというより、A氏の考えがB氏へ伝わるのではなくて、A氏とB氏が同時に考えたということに等価です。言い換えると想念には速度という概念がないということになります。あくまで仮にですけど。極端なお話しです。大事なのはトム・ベアデンが指摘したように電磁気現象の非対称部分を削除したという歴史経緯です。未だ天文学は電磁気現象の対称部分だけの手法で観測しているに過ぎないことを意識すべきです。何も天文台でなくてもよいかも知れないです。
      >「ホツマツタエ」の研究
      ネットでいろいろ情報がありますけど、そのほとんどが出鱈目です。池田満氏と協力者の方々以外は無視でよいです。

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