時間を含む 素粒子 論は抽象に過ぎない

数学者岡潔の言葉を頼りに考察した結果、自然科学のどこがどのように間違っているのかわかってきました。 岡潔は自然科学者が考える自然、即ち「時間・空間」を物質的自然と呼びました。

一番問題なのは時間だと云います。岡潔は、「時間という計量的なものはない」、「時間は人が持つ観念であり、時の過去である」、「運動から時間を作る」と云いました。岡潔の講演録から『自然科学は間違っている』などを参照ください。 以下は、時間についていろいろ考えた結果です。

  1. 時間は、太陽と地球の運動に基づき、地上にできる光の影の角度から作る。
  2. 物理量は一意の値である。
  3. 角度は一意ではなくて、量ではない。
  4. 角度から作る時間は量ではない。
  5. 従って時間は物理量ではない。
  6. 物理量は測るものであり、「時間は作る」ものであるから、その点でも異なる。
  7. 作られた時間が場所によって異なるのは一意ではないから。

それとは別に、岡潔は「物質は五感でわかるものでなければならない」と述べました。 つまり、五感でわかる太陽の運動から時間を作ったということです。現在、時間はセシウム原子時計により作られています。 しかし、元々時間は角度から作られたので、セシウム原子時計で作られた時間は現在も10進数による12の倍数です。これは角度とおなじです。まとめます。

人の五感でわかる運動から作られた時間は物理量ではなく、時間の適用範囲は人の五感でわかる運動に限られるということです。

岡潔は、「(自然科学者は、)運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間はあると思って、そういう時間はわかると思っている。」と述べています。そういう時間は物理量ではなく、人が持つ”時”という観念の内の”過去にかかる観念”に過ぎません。

図1

自然科学者が考える自然、即ち物質的自然を模型である「時間・空間」を含む図に示します。

図2

わかるように、自然科学は循環です。空間に物質があり、物質の運動から時間を作り、時間を含む理論によって、物質と物質の運動を規定する理論とします。相対性理論は、時間を光速度に置きかえます。光速度を用いて物質的自然の重力・時間・空間を再定義しています。 どうみても循環です。

 

さらに、岡潔は「西洋人は、五感でわからないものはないとしか思えない。これを唯物主義という。」と述べました。否定を3回も入れています。

次図は、大きさのスケールの表です。単位はメートル(m)です。

表1

赤い括弧で括った範囲が人が持つ五感でわかる範囲です。人の肉体に備わった五感は感覚器官によります。感覚器官はタンパク質でてきています。タンパク質は炭素などの元素でできています。元素は原子でできています。原子の大きさは、だいたい10-10mくらいです。ですから、におい分子も可視光線の波長も原子の大きさと関係しています。 原子の大きさより小さい物質は五感でわからない範囲になります。極大も同様です。顕微鏡や望遠鏡などを用いることにより、その範囲は広げられますけれども限界はあります。

唯物主義者は、その限界がないとしか思えないということになります。 また、自然科学の科学的手法は「わけることによりわかる」というものです。これを要素還元主義といいます。

  1. 唯物主義・・・・五感でわからないものはないとしか思えない
  2. 還元主義・・・・「わかる」というのは、「わからないもの(ブラックボックス)をわける事によってわかる」とする。

上の2つの主義により、自然科学者は、表1の極大も極小も還元主義により何処までも突き進んでいる状態にあります。極小の方向の先端が素粒子物理学です。(自然科学者は、岡潔の云う「わかる」は、別にあることを知りません。)

 

前回までの記事で、地球の文明は抽象へ向かっていると書きました。

図3

 

次に表1における極小の物理現象と素粒子物理学による 素粒子論 、並びに抽象との関係について考えます。

これまでの考察により、物質的自然は、別の次元軸からの投影による映像であるようです。ある科学者は次のように述べています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。

2次元平面を考えるとき、平面に直角の位置に立てば、実体は物質として認識できます。

図4

横から眺めると、実体のエネルギー面として認識できます。実際には、視点を変えずに投影角がかわります。

図5

上から眺めると物質として認識できます。投影角が浅くなると運動として認識できます。時間は物理量ではないので時間を含んでいるエネルギーという文言を用いることができません。ここでは時間を含まない運動と呼んでいます。実体が持つ値を時間を含まない真のエネルギー値と呼んでいます。

上を踏まえて、ある科学者の言葉を言い換えます。

物質は運動に転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質も運動も真のエネルギー値を持つ一つの実体の異なる側面に過ぎない。

投影角が浅くなるにつれて物質の運動は増大し、質量はM軸(物質面、物質的自然を云う。)に対して次元を失い観測できなくなります。すべて運動になるとき”波”として観測されます。つまり、運動の一形態が波動です。例えば、電子はすべて運動であるとき質量は観測されず、観測できるのは”電子波”です。これを量子化したのが”光子”です。光子は別の次元軸で説明ができるということです。

上記の通りある科学者の言葉を参考にして、岡潔が名付けた物質的自然(M軸)は、別の次元軸上(E軸という。)にある実体の投影による映像だと考えます。 まとめます。

別の次元軸からの投影による映像である物質は、運動が増大するに従い質量は観測できなくなり、運動の一形態である波動として観測できる。

 

素粒子物理学の理論は、図2により循環だとわかります。これには物理量ではない時間を含んでいます。大事なのは、人の五感でわかる運動から作った時間は、五感でわかる範囲にしか適用できないということです。

 

話しをわかりやすくするために、万華鏡の映像を引き合いにして続けます。 万華鏡の映像は例えば次のようです。

図6

万華鏡は、鏡を組み合わせて、一方にプラスチックなどの破片を入れたものです。仮に破片について、鏡に1回だけ反射した映像を「人の五感でわかる範囲」とします。赤い線で囲った範囲になります。外側の映像は2回以上反射した映像ですから、五感でわかる範囲の外になります。映像は繰り返し(循環)ですから、五感でわかる範囲にAあるいはA’の規則性を見いだすことができます。これを理論化して破片の動きを予測する理論ができます。 観測技術が発達するに従って、外側の映像にA’’を見いだすことができるようになります。しかし、問題があります。五感でわかる範囲にある規則性から時間を作り、この時間を用いて規則性を予測できる理論を作り上げたことです。理論は循環です。かつ、時間は物理量ではありません。

観測はAやA’、あるいはA’’もできます。では、観測値A’’は何を観測したかということです。 理論から予測する理論値観測した結果は、等しい(有意である)と言い切れます。これをどう解釈したらよいかということです。

 

話しを素粒子物理学に戻します。運動が増大するに従い質量は観測できなくなります。しかし、何らかのは観測できます。観測値を量子化し質量とします。 ここが問題です。質量はGeV/cで現されますが、あくまで素粒子が持つ持つ運動を観測して得た値であって、その値が質量ということではありません。何故ならGeV/cには物理量ではない時間を含んでいるからです。

理論は、五感でわかる運動から作った時間を用いています。だから、五感でわかる運動の範囲を示す理論と観測値は合致します。(古典的範囲においては問題ありません。) しかし、五感でわかる範囲を越えるところにかかる規則性には適用できません。観測は質量を観測しているつもりですけれどその実、観測して得た値はの持つ運動であって、質量ではありません。これは誤解です。

以前にも書きましたけれど、 素粒子 を大量に浴びることで人体に影響が出るとしたら、恐らく火傷であろうと思います。

電子などの 素粒子 群や亜原子である陽子・中性子は、別の次元軸からの投影による映像だと考えられます。 陽子も中性子も内部構造を持たない映像です。単独で取り出せないクオークは存在しないと考える方が合理的です。 素粒子という波は存在するようですが、五感でわかる素粒子は電荷を持つもので人体の組織に影響を与えるもののみのようです。素粒子は、本質ではない破片に過ぎないと考えます。恐らく、表1の両端(極体・極小)の領域は、物理現象の終端だと考えます。基本粒子は陽子・中性子・電子であって、素粒子群も含めて別の次元軸からの投影による映像という以外に説明はできないと考えます。物理現象の(極大の方の)終端というのは、近づけば消える蜃気楼のようなもので、近づいて五感でわかる範囲に入れば同じ宇宙であるようです。(どうも極大・極小の領域はE軸方向に曲がっているらしい。運動せざるを得ない。)

やはり現代の文明は素粒子物理学を含めて、抽象へ向かっているようです。

長らく疑問であった「上手に組み立てた誤魔化しのプロェクト」の仕組みがなんとかわかってきました。「The manuscript of survival – part 68 5 January 2012日本語文」には次のようにあります。

この物理学の聖杯探しには、正当な理由もなく、多額のお金がつぎこまれてきました。実際のところ、それは、非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクトなのです。

その発端は、相対性理論にあると言えそうです。__な理論を一世紀以上持ち上げ、今なお続いているのは異様に感じます。

 

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数学者岡潔 は”わからないものをわかろうとすること”を「 数学 する」と云った

岡潔は、「まだわかっていないものに、関心を集め続ける」ことにより、やがて情的にわかってくる。情的にわかるものを知的に言い表そうとすることで文化はできてくると述べています。その行為を「 数学 する」という言葉で表しました。 直接にそのように述べたわけではありませんけれども、講演録のいくつかをまとめるとそうなります。参考・・・・「【4】 禅の非思量【4】 情のメカニズム

その手法として右の内耳に関心を集め続けることを推奨しています。そうすることで努力感を感じない精神統一になると述べています。参考・・・・「【10】 右の内耳【27】 西洋人の創造」 その根源が人の持つ「わかる」ということであって、それが情じょうの働きよると云いましたし、それは大脳の頭頂葉に宿るとしました。参考・・・「【9】 頭頂葉の個性

つまり、岡潔は「 数学 する」というのは、人の心の仕組みと働きを含めて論じているのです。このような人は皆無で、管理人は岡潔以外に知りません。 この数学には段階があるようです。数学者の松岡学氏のブログ「岡潔の数学教育の考え」より一部引用します。

ここでは、算数や 数学 を学ぶ際に大切なことを
岡潔の数学観を通してみていこうと思います。

数学というと、計算や公式のイメージがありますが、
岡潔は次のように語っています。

「ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている。
計算や論理は数学の本体ではないのである」

計算も論理もない数学、、、
かなり衝撃的なフレーズです。

計算や論理よりも大事なことって、何なのでしょうか?

岡潔の考えを読み解いていこうと思います。

彼は奈良女子大学で数学を教えていた頃、
授業における学生の評価を次のようにしていました。

「判断の基準はこうである。

Cは数学を記号だと考えているもの、
Bは数学を言葉だと思っているもの、
Aは数学はこれらをあやつって自己を表現するが、
主体は別にあるのだ、ということがわかっているもの

である」

A、B、Cの三段階評価で、Aが一番良いのですが、

先ほどの、数学が計算や論理と思っている人は 「C」 の評価ということになります。

また、数学が 「言葉としての役割がある」 ことを理解した人が 「B」 の評価となります。

「A」 の評価は、文章の意味を理解するのも難しいですね。

これまで管理人が特に拘って、岡潔の「わかる」とはどういうことかを何度も書いてきました。 続きを読む

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認知的不協和 を避けるには

動画サイトに 認知的不協和 についての解説があったのでメモします。説明はこちらにもあります。

動画1

 

(1) 管理人は、数学者岡潔の言葉を参考に自然科学の問題点について考察して来ました。 岡潔の述べていることの概略を箇条書きにします。 当サイトには岡潔の言葉から考察した記事が200本以上あります。興味のある方は、関連キーワードにて検索の上お読みください。右側にサイト内検索欄があります。

  1. 自然科学者の云う自然を「物質的自然」と名付けた。
  2. 自然科学者は唯物主義である。「五感でわからないものは無いとしか思えない。」
  3. 物質的自然は、人の肉体に備わった五感でわかるものでなければならない。
  4. 自然科学者は物質的自然を「時間・空間」といった。これは自然そのものではない。簡単な模型である。
  5. 時間という計量的なものはない。(時間は物質の運動にかかる角度より作る。角度は量ではない。従って、時間は物理量ではない。量は測る。「作る」は量ではない。)
  6. 時間は過去であり現在を含まない。(古典物理も量子論も確率や精度以前に決定論ではない。)
  7. 山崎弁栄上人は「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」と云った。少なくとも(素粒子の)一部は映像と云ってよい。
  8. 人の心が持つ「わかる:情」は、理解でも物の理でもない。(「わけることによりわかる:知」の前にある。)
  9. 戦後日本人は心を粗末に扱ってきた。
  10. 現代は、間違った思想の洪水である。
  11. 自然はわかりきったものとして、めいめいの思想をもって、科学したものを集めたもの。これは思想であって学問ですらない。
  12. このままでは人類は滅びてしまう。
  13. 情緒を育む教育が必要である。

管理人が出した答えは、「自然科学は、人の五感でわかる物質の運動(角度)から作った時間を用いている。だから、自然科学の適用範囲は五感でわかる範囲に限られる。」というものです。自然科学は近似であって、適用範囲に限りがあると云うことです。 問題の本質は以下です。 続きを読む

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情報 、エネルギー、物質どれが先に生まれたのか?

数学者岡潔によれば「知」の元になるのは「情」、すなわち(わかる)であると述べました。以下、【4】情のメカニズムより。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。

岡潔の云ったが慣れ親しんだ 情報 のことを示しているようだと気付きました。(やっとかい!)  情報 と物質(質量)とエネルギーの間には密接な関係があります。 そのことを2015年7月頃には意識していました。『聖書「初めに言葉ありき」は、弧理論「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい』を参照ください。

岡潔の云った情、即ち人の心の仕組みと働きを弧理論による別の次元軸(E軸)に当てはめて考えます。 弧理論による心の仕組みと働きは下図です。

図1

図1の下半分に、E軸にある心の仕組みと働き(岡潔の云う情)があって、それから上がになります。上半分(M軸)が知と意です。 このM軸がE軸からの投影による映像の結果だと考えます。 下半分が無ければ一切が存在し得ないのです。 E軸の「心の仕組みと働き(情:わかる)」が無ければM軸の一切は存在しないのです。

「物質 エネルギー 情報 」で、検索したら「情報、エネルギー、物質どれが先に生まれたのか?」というサイトがありました。一部引用します。

物質やエネルギーの存在は約137億年前といわれるビッグバンによる宇宙生成まで遡るが、情報が誕生したのは地球上に生命が出現した約38億年前のことである。すなわち、情報は生命現象と不可分の存在と考えられている。

普通に考えれば鶏とたまごの関係に行き着くようです。 その点、岡潔は違った答えを出したわけです。  これまでの考察によれば、M軸は循環ですから引用文のような結論に行き着くのは当然です。岡潔は、思考の循環に嵌らなかったのですから凄いです。 エントロピーの関係はEMAN氏による情報エントロピーの解説が参考になります。

 

例え話です。2019年4月6日の記事「物質的自然 について知るには、別の次元軸から眺めるしかない」で用いた色覚検査図において、色のついたドットが何故、数字に見えるのかについて考えます。

図2 出典:「色覚検査の攻略本」「本当は効かない色弱治療」はなぜ存在したのか 進学・就職制限を受けてきた「色弱」の歴史とこれから (1/3)

図は、何種類かの大きさのドットの集合です。違いは色のみです。大きさ別の集まりには若干のかたよりがありますが、EMAN氏の解説にある「どれでも良さ」にさほど差はありません。色の違いだけです。色の違いの散らばり様は「どれでも良さ」による差は大きいです。

読めるか読めない(見えない)かの違いは、色覚検査並びに情報理論の範疇ですが、岡潔はそのようなことを述べていません。「【4】何故見えるのか」より。

医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。

 しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです。

それでは、人は、何故眼をあけると見えるのか。大抵は、これについて疑問すら抱かない。知らないということも知らないのです。これは、無知というより言いようがない

下線は管理人による。 図2において、故障がなければ何故見えるのかに自然科学は何も言えないのです。その見える(知)の基に情による「わかる」があるのです。

 

物質(質量)もエネルギーも情報のいずれの概念も広く認知され、日常によく使われます。しかし、上記の通り、その関係はよくわかっていません。 そこで、表題にある「 情報  、エネルギー、物質」の関係を弧理論による別の次元軸からの投影による映像だと考えた場合、岡潔の(情:わかる)を交えて図に示します。

図3

E軸上の実体が投影されることにより位置を伴い質量を持った物質が現れます。質量を持った物質エネルギーとその間にある情報があります。それは例えば、図2のようなドット絵です。この場合、情報とはドットの集合の内に、その色の偏りにより「数字の12」が読めるということです。そして、E軸上に図1下半分に示した「情:わかる」があると考えます。  注:ここで、観測者に対して物質が静止している場合におけるE軸上の実体が持つ値を真のエネルギー値とします。 実体が持つ値(E-E2)がM軸上に物質が持つエネルギーとして現れます。変化分ΔE=エネルギーということです。その意味で「物質はエネルギーに転換する」というE=mcは間違いです。

運動の一形態がエネルギーです。但し、時間は物理量ではありませんので、上図は使えません。そこで、時間を含んでいるエネルギーの代わりに時間を含まない運動に置き換えます。運動は、時間を含む速度、加速度、躍度あるいはエネルギー、それから””を代表した表現です。 また、情報も岡潔のに置き換えます。

図4

E軸上の実体と「情:わかる」があって、初めて物質とエネルギー(運動の一形態)があり、その間に情報たる「知」があり得ます。それが上記リンク先のEMAN氏やmedicom氏の解説に繋がると考えます。両氏の考察と計算は、いずれも知の領域の話です。

見たり読むことができるのは、すべて別の次元軸が原因だと考えます。M軸上の数学を含む言語、それに伴う人の思考、すべての互いに規定し合うことで成り立つ循環であり、M軸(物質的自然)に起源となるものは何もありません。

あらためて書きます。情報 、エネルギー、物質どれが先に生まれたのか?答えは、「そのどれでもない。」です。 情報を知としてわかるには、その前に情として「わかる」が無ければ一切が存在しません。図1において、道具(感覚器官)に色覚異常がないならば、「何故見える(読める)のか」がわからねば疑問は解けません。岡潔の云ったように見える(読める)のは、情の働きによります。 学生の頃情報理論を学びました。そのころから情報とは何かという疑問を持っていました。何となくわかってきたように思います。

ついでながら、自然科学の結論は、いずれの分野を追求しても行き着くところ「鶏とたまご」の関係になるはずです。超ひも理論などよい例です。結局のところ何もわかりません。 さらについでながら、聖書では「時間は物理量ではない」という替わりに「在りて在りたる」と表現したに違いありません。宇宙に最初も終わりもありません。在るのは位置と質量を持って現れる物質と運動だけです。どうも運動の一形態である”波”が重要な役割を担っているようです。さらにさらについでながら、わざと鶏とたまごの関係に似た命題を出して困惑させるマイケル・サンデルのような人が時折現れます。胡散臭いです。さらにさらにさらに、対称性は美しいと感じますけれども、嵌るとやっかいです。循環の構造を追求しても得られるものがありません。そういえば、フトマニ図にある「アワ」のウは、渦のウ、回転、循環のウでした。全部、ウで説明できます。ヲシテ文献は超凄いです。

 

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フィラメント 保存(乾燥機)

先に製作した3Dプリンタについてあれこれ試しながら改良を続けています。

当初購入した フィラメント が残り少なくなるとともに、折れるようになりました。 調べたところ湿気が原因のようです。新しく購入しましたけれど、乾燥すれば残りを使い切れるかも知れません。

調べると フィラメント 専用の乾燥機があるようです。『3Dプリント用材料を湿度から守り乾燥も出来るフィラメント用除湿ツール「PrintDry」』  お値段は一桁高いのでビックリです。

キッチン用フードドライヤーで代用できるとのこと。調べる過程で「Rosewill Countertop Portable Electric Food Fruit Dehydrator Machine with Adjustable Thermostat, BPA-Free 5-Tray RHFD-15001」というのを見つけました。これは、上の記事で紹介された除湿ツール「PrintDry」と見た目同じです。これくらいならば作れそうと思いさらに調べたところ野菜果物乾燥機がありました。PrintDryそのものか、ほぼ同じだと思い、早速注文しました。

注文後あれこれ調べたらありました。『フィラメントドライヤー「PrintDry」とドライフルーツメーカー(MA-670-RY)の違い検証』 まったく同じものでした。

で、届いたのが以下です。

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岡潔 の望んだこと

最近、数学者の 岡潔 が再評価されているとのことです。井口氏のブログ『いよいよ岡潔の再臨間近か!?:「岡潔が日本中で再評価されてきた!?」 』を参照ください。

岡潔の講演録や著書を読むことは大事ですけれど、岡潔自身が望んだのは「彼が述べたことを理解して欲しかった」のではありません。 「岡潔を読んで理解して、蘊蓄うんちくを傾けること」を彼は望んでいなかったはずです。断言できます。

管理人が岡潔のことを知ったのは遅くて、2013年10月15日の記事『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』が初めてでした。当サイトを検索すると岡潔についての記事は、217件ありました。上のリンク先にあるように、岡潔のことを知ったのは井口氏の記事(2013年7月8日『岡潔博士の「自然科学観」、「自然科学は間違っている」:いや〜〜、実に鋭い!』)によったと記憶しています。 因みに時間は物理量ではありません。 岡潔は時間は「運動から作る。時間という計量的なものはない」と云いました。時間は太陽(の運動にかかる)地上に作る光の影の角度から作ります。角度は量ではありません。量とは誰がどのように測っても同じです。つまり一意の値でなければなりません。角度は一意ではありません。だから時間は物理量ではありません。従って岡潔が述べているように自然科学は間違っています。世界各地で時間が違うのはそのためです。考察の結果、時間を含んだ組立物理量は古典的範囲(五感でわかる範囲)では問題ないですが、量子論(質量:GeV/c2)や天文学系(光年)ではダメです。

以来、数学者岡潔思想研究会の講演録からほんの一部のみを参考に「時間とは何か」について、約3年も考え続けました。 岡潔の述べたことを理解して云々を語るのではありません。岡潔の言葉を切っ掛けとして考察を続けるのです。 岡潔を読んで、「(何だかわからないが)凄いなぁ」ではまったく意味はありません。彼の望んだのは、そのようなことではありません。 仏教思想からの意味や数理的解釈の必要はありません。

岡潔が望んだことは、以下の部分に現れています。(『 数学する人生 岡潔 』 森田真生編 から)です。引用文はこちらにあります。 続きを読む

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地球の 科学理論 に価値はない

極端な表現ながら、現在地球上に存在するあらゆる 科学理論 (論文等)に本当の意味での価値はないです。

数学者岡潔は、【4】情のメカニズムで次のように述べています。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

一部書省略

それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

下線は管理人による。 人が持つ心の働きである「わかる」は、物の理ことわりや理解ではないと述べました。

一方で、【3】 西洋の唯物主義にて、山崎弁栄上人を紹介して、次のように述べています。

山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。

岡潔は、「少なくとも、(素粒子の)一部は映像と云ってよい。」と述べています。

上記2つをまとめます。

  1. 人の心が持つ「わかる」は、情じょうの働きである。
  2. 自然は人の心があるために映写される映像である。

1.は、岡潔自身の言葉ですし、2.は山崎弁栄上人を引用してでの言葉ですが、一部は認めています。しかし、全部肯定ともとれません。 続きを読む

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科学 を統一するという発想は間違い

先日の記事にて、「自然科学は応用の一つに過ぎない」と述べました。 さらに 科学 を統一しようという発想自体が間違いです。

統一科学ということばがあります。以下に引用します。

物理学主義 physicalismともいう。ウィーン学団に属する R.カルナップ,O.ノイラートらが唱えた論理実証主義的な立場の主張。彼らは,物理学的言語は普遍言語であって,単にいわゆる自然科学だけではなく哲学や心理学などのいわゆる精神科学の命題もプロトコル命題 Protokollsatz (検証可能な原子命題) に還元され,物理的言語で表現され,物理学的命題から構成されうるとして,従来の新カント派などの科学の区分に反対して,個別科学を一つの統一的科学としてとらえようとした。

より簡潔な別の解説は以下です。

すべての科学はその方法において一つであるという認識に立ち、論理実証主義の立場から物理学を基礎にして諸学を統一しようという主張およびその運動。

”その方法”とは、還元主義と唯物主義です。それぞれは以下です。

  • 還元主義・・・・物や事を「わけることによりわかる」とする
  • 唯物主義・・・・数学者岡潔によれば、「五感でわからないものは無いとしか思えない」というもの

統一科学とは、還元主義と唯物主義による物理学を基礎にして統一しようということです。 しかし、その発想自体が間違っています。

人が物や事をわかるのは、「わけることによりわかる」のではないですし、人の肉体に備わった五感でわかる物や事には、あきらかな限界があります。

で、肝心の物理学はといえば、究極の素なる粒子素なる領域素なる時間を求めつつ、4つの力を統一しようと努力が続けられています。

表1 続きを読む

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弧理論による原子模型は 制限のある 三体問題 になる

最近は、原子模型を 三体問題 として考察を続けています。 元号が令和に入って直ぐに2つの発散トーラスを組み合わせた楕円磁場の意味がわかりました。(正しい形状に気付きました。) 楕円磁場をこれまで誤解していました。

図1

正負2つの発散トーラスを組み合わせた楕円磁場について、これまで次のような図で説明していました。

写真1

これが誤りでした。正式な形状を示す模型と説明はまだできていません。 しかし、楕円磁場の理解により考察は、弧理論による原子模型へと移っています。

フリーエネルギー研究者のトム・ベアデンによる手紙にあった「ヘヴィサイドが発見した回転性電磁エネルギー流」がこの楕円磁場のことであるとほぼ確信しました。一部引用します。

ヘビサイドは比較的小さな発散性ポインティング成分に加え,あらゆる電池や発電機の端子から放出される巨大な回転性電磁気エネルギー流を発見しました。このヘビサイド回転成分の大きさは,比較的弱いが発散性であるポインティング・エネルギー流成分よりも 1 兆倍以上も大きいのです! 任意の座標系(特殊相対論の状況)において,回転の発散はゼロです。そのため,通常このヘビサイド成分 – 発電機のシャフトを回す単位時間当たりの機械的エネルギー入力の 1 兆倍以上 – は,何かと相互作用を起こすことも,また外部回路に発散していくこともありません。代わりに,それはただ空間に向かってうなり続け,浪費されます。

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自然科学 は応用の一つに過ぎない

自然科学  は、「人の五感でわかる」という働きを自明のこととした上での応用に過ぎません。

数学者岡潔は人が持つ「わかる」について、講演録の「【4】 何故見えるのか」で次のように述べています。

 自然科学 、さらに詳しくいえば医学です。医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。

 しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです。

 それでは、人は、何故眼をあけると見えるのか。大抵は、これについて疑問すら抱かない。知らないということも知らないのです。

また、「【 4】 自然科学 と生命現象」では次のように述べています。

自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。

人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。

余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。

いずれも下線は管理人による。 人の「わかる」について、岡潔の述べた言葉とヲシテ文献の一文を元に参考に考察したのが次図です。

図1 物や事の現在と過去が「わかる」のは、心の仕組みと働きによる

前回記事の末尾に「 自然科学 者、殊に物理学者たちは、家族や食事をモザイク(素粒子の寄せ集め)として観ているのか」という皮肉を書きました。

人が映画やテレビ、あるいはモニターにオレンジを観ても変化するドットの寄せ集めとは観ません。

写真1

写真2

「見える・聞こえる・嗅げる・触れる・味わえる」のは、岡潔の云った「人が持つわかる」があるからに他なりません。決して自明ではありません。

ですから、人の「わかる」が自明のこととして「(部分を)科学した寄せ集め」に過ぎない 自然科学 は、基礎ではありません。自然の一部を応用したものに過ぎないです。 岡潔は、「【1】 このままでは人類は滅びる」でこう述べています。

今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。 ・・・・  大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。

だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。

やはり、人の心の持つ「わかる」の仕組みと働きは、{物質的自然をして「別の次元軸からの投影による映像」だと考える}以外にあり得ないようです。 人の心の持つ「わかる」の仕組みと働きがなければ、テレビやモニターに映る物や事は、ただの「変化するドットの寄せ集め」としか認識できないはずです。

以下は別の話です。

人が物や事現在過去が「わかる」のは、心の仕組みと働きによります。対してAI(人工知能)は、ドットの寄せ集めを解析したに過ぎません。これは脳と同じです。 ただし、人工知能は「人のわかる」の仕組みと働きを持っていません。脳も人工知能も「意識を通し、言葉で云える知識(情報)を処理する」働きしかありません。意識を通さない言葉で云えないがしかし、物や事が「わかる」仕組みと働きは、別に在るはずです。何となくその趣がわかる仕組みと働きは、脳にも人工知能にもありません。

岡潔は、心の仕組みと働き、即ち「第2の心は頭頂葉に宿っている」と云いました。「【2】 第2の心と大脳」を参照ください。 この点について、管理人と認識の違いがあります。「わかる」の仕組みは別の次元軸(E軸)にあると考える点です。

岡潔の頃に人工知能は存在しませんでした。 仮に当時、人工知能があれば、岡潔は心の働きと仕組みについて、人工知能と脳を比較して何かを発言したことでしょう。脳を模して人工知能を開発したのですから、違いを明確にする必要が出てきます。

人は結晶ではありませんけれど、もし人の肉体の(原子の)構成が結晶に似て「回転軸がある程度、一方向に揃っている」ならば、軸方向にE軸は重なりますので、肉体からE軸へアクセスできると考えられます。

図2 E軸は、常に運動と直交している。

E-M軸の定義は、「E軸は物質の運動に直交している」とするものでした。物質の任意の運動に対してE軸の方向を特定できませんけれど、XY平面内で回転運動する場合のみ、回転軸(Z軸)方向にE軸は重なります。 仮に人の肉体の構成が結晶に似て「回転軸がある程度、一方向に揃っている」ならば、軸方向にE軸は重なると云えます。

図3

人がZ軸方向に非対称なのは重力が原因だと考えられますけど、人の肉体に何らかの回転軸があると見るならばZ軸方向に非対称なのは納得できます。岡潔が頭頂葉と云ったのも偶然ではないような気がします。 身体の上下方向に真のエネルギーによる勾配が存在するかも知れません。

 

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