なぜ、引力と遠心力は合成できるのか?

最近、加速度に種類があるのではないかとの疑問について考察してきました。ところが、うまく質問の型式に言い表せなくて悩んできました。

それで、「区別できないが、運動には種類があるかも」という仮説に到達しました。加速度にこだわったのは、寺田虎彦の随筆があったからです。

寺田寅彦「物理学と感覚」よりについて一部引用します。

たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。

というのは人が持つ観念であって具体的なものではなく、人の便宜だと説いています。しかし、力の合成と言う意味ではうまく説明できないで来ました。

図1

結局のところ、力が合成できるのは、「(区別できないが)運動に種類があるから」という仮説に至りました。

  • 運動: 速度→加速度(力が働いた)→力は合成できる

ということですから、(区別できないが)運動に種類があるならば、速度も加速度も力も合成できるということになります。

しかし、発想の発端が電磁気学において、電磁誘導と単極誘導の扱いに極端な差があったらで、そこから「(区別できないが)加速度に種類があるかも」という仮説に至った経緯がありました。それにしても、頭が精神科学と弧理論による社会科学に偏りすぎたきらいがありました。

気を取り直して、疑問形になりそうです。

  • 異なる種類である引力と遠心力は、なぜ合成できるのですか?

しかし、この質問形ではひきが弱いです。「当たり前だ(自明)」と言われてしまいます。ニュートン以来、自明とされてきたことですから、当然です。

違う表現ではどうでしょう。

  • 引力と遠心力は加減(合成)できます。であるならば、引力は遠心力ですか?

答えは「はい」か「いいえ」、もしくは「どちらでもない」になりそうです。いずれの場合も明確な理由が必要です。自明だというのは理由になりません。

異なる力であっても加減できるのですから、2つは同種の現象ということになってしまいます。しかし、引力と遠心力は明らかに異なる現象です。何とも腑に落ちません。

gif1 重力と遠心力が合成できるのは何故?

もう少し考えます。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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