自然科学 の限界

数学者の岡潔は、 自然科学 によって成り立つ現代について、次のように述べています。「【1】 このままでは人類は滅びる

今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。

で、その為に思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。

一番怪しいと思えるのは自然科学です。

このままでは、人類は滅びるだろうというのは疑問の余地はありませんでしたけれども、現代の思想の何がどのように間違っているのか、岡潔の講演録を読んでもあまりわかりませんでした。しかし、「自然科学が一番怪しい」といいますので、これまで自然科学の問題点について調べてきました。一応、前回までの記事に記したように大凡の問題点はわかってきました。

自然科学 とはどういったものなのか、管理人なりに書き下すと次になります。


自然科学者が考える自然を物質的自然といい、自然科学者はこれを時間・空間と言った。これは簡単なモデルであり自然そのものではない。量ではない角度から作った時間を基準としていたが、20世紀に入ってからは基準を時間から光速度に置き換えた。そして、光速度を基準に物質的自然(時間・空間モデル)を既述した。しかし、光速度がわかるためには、その前に時間がわかっていなければならない。角度は物体の関係位置による。物体、あるいは物質は物質的自然の内にある。これは循環である。従って、堂々巡りである自然科学は本質的に何も説明し得ない。

図1

自然科学者はとは何かについて、近接作用を基本として、物質粒子と力を媒介する粒子にわけて既述し、最終的には”量子場”に行き着いた。物質は量子場より生じるとした。だが空間とは何かは明らかではない。


問題は、前回の記事「自然科学の問題点(ほぼ確定)」にて説明しました。要は、量ではない時間と光速度を用いて既述した自然科学(物理学)は、の区別がなく、混同しているということです。すると物質的自然の内のあらゆる物や事が混ざったまま、量ではない時間と光速度によって表されているという状態にあるわけです。

 

前回の記事で示したように、熱力学的エントロピーと情報エントロピーは同じ数式で表されますが、自然科学では異なるものとしか扱えません。管理人はこれまで何度か”情報を蓄えるにはわずかばかりのエネルギーが必要だ。”と書いてきました。よい例とはいえませんが、次に示します。

USBメモリ(32GB)の速度テストです。

写真1 安全に切り離すと電流はゼロを示す。

情報という意味では読み書きの速度という見方をしますが、同時にUSBメモリは単に電気的な熱の消費であり、その分だけUSBメモリは発熱します。

 

エントロピーとは平衡の度合いを示す値です。

物とは基本粒子(陽子・中性子・電子)の3つしかありません。(これまでに示したように、素粒子は孤立波であり、物ではなく事です。)仮に陽子のみの世界であれば、完全に平衡な状態の世界になり、何も起きないし、物の存在の有無すらわかりません。熱としても情報としても周りとの違いに意味があるわけです。

熱も情報も物ではなくです。人の五感でわかるのはです。自然科学では、これが混同されています。熱を量としているのが間違いだろうと思います。量を持つのは物ですし、質があるのは事です。事の質とは情報です。(弧理論では、事を総称して運動としています。)

では情報とは何なのでしょう? 平衡ではない周囲との違いを表す最小単位がビット(bit)です。すると物質的自然のすべてを情報として扱うことができるはずです。しかし、私たちが欲しい情報はどうでもよい情報ではありません。ここに人の心の仕組みが関係してきます。


人の「わかる」には2つあります。岡潔は、人には心は2つあるとしました。これを第1の心(ヲシテ文献のシヰ)と第2の心(ヲシテ文献のタマ)と名付けました。これがいわゆるタマシヰです。2つの心のわかり方は違います。

  1. 第1の心(シヰ)。わけることによりわかるとする還元主義。五感でわからないものはないとしか思えないという唯物主義による。意識を通し言葉で言える。
  2. 第2の心(タマ)。意識を通さず言葉で言えないがしかし、その趣おもむきが何となく直にわかる

第2の心(タマ)による「わかる」が本当の「わかる」です。これがなければ一切は存在しません。岡潔はこのわかり方の根源をと言いました。「【4】 情のメカニズム」(ただし、ヲシテ文献では少し分類が異なります。)

で、物質的自然のすべてについての情報を得たとして何がわかるというのでしょうか。前回の記事では、「人は言葉でわかっているのではない。」としました。一部を再掲します。

写真2

言葉で言えば、これは”スプーン”です。ではスプーンとは何かと問われれば、次になります。

図2

突き詰めると、物とは何かを説明しなければ、第1の心、即ち「意識を通し言葉で言える」で「わかった」ことにはなりません。で、自然科学者の答えが量子場だということです。しかし、前回の記事で示したとおり、「(量子)場」は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワークです。岡潔が云ったように「自然数の1は決してわからない」というのと同じです。

ここで、彼ら自然科学者(物理学者)がたどり着いた量子場を仮に次の写真のような数式だとします。

写真3 神の数式

このような情報(数式)には、写真2が何であるかが含まれていません。第1の心でわかるために必要なのは、自然科学者、ことに物理学者に必要なのは”スプーン”そのものを既述する数式だということです。でなければ、第1の心(わけることによりわかる)によりわかったことにはなりません。 繰り返します。人は写真2が何であるかを言葉でわかっているのではありません。第2の心によりわかっているのす。

 

前回の記事で示したとおり、究極的には、は”場”により既述され、”場”は互いに規定し合うことにより成り立っており、決してわからないのです。それしかあり得ないと考えます。 管理人はこの”場”について、どうも境界空間ではないかという仮説を出しています。


写真4

岡潔「空間は量的に質的にありません。」→接する面(境界平面)は人の感覚でわかりますが、量的にも質的にも存在しません。つまり、接する面(境界平面)について、エーテルはないが、ポテンシャルはあるという状態の2次元平面です。この境界面の次元を一つ上げたのが境界空間という仮説です。


やっと本題です。

結局、自然科学は量ではない時間と光速度を用いているために、物と事を混同している訳で、その理論と実験はよく整合しているけれども、第1の心の仕組み(数学を含む言葉)と特性から、自然科学は何も説明し得ないということです。で、自然科学がその理論と実験で示した内容は単に抽象でしかないということです。還元主義に疑いを持たずに行き着く先には抽象があるのみだということです。何せ第1の心は、循環・ループ・ネットワークで「外のない内」ですから。

 

自然科学の行き着く先が抽象の極みだとするならば、自然科学の恩恵を受けて生活している我々は、どういう社会に住むことになるのかということが問題です

図3

 

米大統領選の混乱や中国共産党の暴走、あるいは国際金融資本家の思惑などの本質には、抽象へのこだわりがあるだろうと感じます。その抽象とはお金と時間です。量ではない時間とお金は単位を付けて量であるような扱いをしています。抽象に過ぎないお金と時間を信じているのですから、幾らでも抽象化できます。※1 既に指摘したように、2つの心(タマとシヰ)の乖離は危険です。心が病みます。

はっきり書けば、この世界の指導的な人たちは皆、考え方が不健康です。善とは悪ではないこと。悪とは善でないことに過ぎません。善は決してわからないですし、悪もまた決してわかりません。互いに規定し合うことにより成り立っており、いずれも抽象だからです。岡潔は「自然数の1は決してわからない。」と言ったのと同じです。どちらかに加担したくなりますが、行き着く先はどちらも同じです。

世界の抽象化に加えて、もう一つ大きな不安があります。どうも、同じ指向、あるいは嗜好を持ち続けていると次世代に「生まれながらに、その嗜好を持つ人の比率が大きくなる」らしいです。エリートキツネ(養殖キツネ:動物好きな研究者の夢 — 40年の研究からペットギツネが誕生)には飼い主がいますけれど、人には飼い主がいません。仮に私たちに支配者がいるならば、その支配者の指向に沿った人類の比率が大きくなるはずです。既に現在、生まれながらにお金と時間に拘りを持つ人の比率は大きすぎる程になっているのかも知れません。世界の混乱を鑑みると、とても危険な状態です。このような状況を止めねばと強く感じます。 参考(2014年5月13日 エリートキツネと闘牛士 )(2020年7月23日 皆、 本当のこと に興味はない。  )

 

※1 岡潔は時間について、次のように述べています。「【 2】 自然科学者の時間空間

(自然科学者は、)運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。

時間をお金に置き換えても意味は通じます。

多くの人たちは、物はお金に比例してあると決めてかかって、そういうお金というものがあると決めてかかって、そして、お金というものはわかると思っています。

実のところ、一部の人たちは、この事実(人々の誤解)を知っていて、意図的にこれを利用しています。こういった簡単な事が皆に知られるのを阻止しようとしてあらゆる混乱を起こそうとしているのではないかと穿った見方をしています。

支配者?指導者の方々にお聞きたいことがあります。この世界を複雑化して、より抽象化して人々をどのような世界に導こうとしているのでしょうか?

 

Φ について

2010年より研究しています。
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2 Responses to 自然科学 の限界

  1. 佐々木 のコメント:

    エネルギーの特定の状態を見えるモノ・計測可能な物理量として、見えない・計測できない状態もやはりエネルギーと言えると思います。この状態の行き来が何故発生するのか。そこを解き明かすのが物理なんだろう、と。見えるモノの数理表現は、表面的な振る舞いをある精度で書き表せても、一面に過ぎない。これを突破するには、自然の動機をどう感じるか、に注目する必要がありそうです。個々人の感性を大切にする社会が要る。
    夏に吹く風って心地いいですよね。今時期だと寒くなってきたので、なんだかピシッとする気がします。これら感じたことは、現象が数式で表されたとしても、動機を記述できない。ホントウのことは動機を知ることができるそっちの方なんじゃないか。
    私が少なからず関わるIT関連で、ある意味限界の、たどり着いてしまっていることがあります。お金や権力など、文明を表したものとして一種の究極の解が示されています。楽しめると思いますよ。 ttps://eetimes.jp/ee/articles/2010/30/news032.html

    • Φ のコメント:

      久しぶりです。読みました。「通貨の価値は信用という共同幻想」について、当サイトでは信仰=神頼みであると主張してきました。同時に言葉遊びでもあるとしてきました。ビットコインは信用ですらないし、資源の無駄遣いというのは、その通りです。その行き着く先がすべての抽象化だというのが私の結論です。精密・正確であることが(わけることが)進化だというのは間違いです。ただの抽象化に過ぎません。人は言葉(数学を含む。)でわかっているのではありません。極度の抽象化は心を病むから別の方向へ進もうというのが私の提言です。
      物質的自然も第1の心も互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワーク(外のない内)に過ぎないから、本当の「わかる」は別にあります。
      アランが言った2つの言葉がこの研究の指針の一つです。「1.君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になる」また、「2.地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。」この言葉は1950年です。本当に手が出ないほど抽象化してしまいました。このような仕事に従事している人に心を病んだ人はいませんか。極一握りの人にしか理解できない仕組みがこの世における根本原理だなどということは、決してありません。これは確信です。
      >動機を記述できない
      幾度も取り上げたカルロ・ロヴェッリの著書「時間は存在しない」で、著者は時間変数を含まない数式を作り上げたのに、何故この世界に様々に「生じる」のかが疑問だとしています。数式で動機を記述できてないということです。その原因は、自然科学において物と事の区別が出来ていないからだということです。(量ではない時間・光速度を含んでいるからではありません。)近接作用を基本として「物質粒子と力を媒介する粒子にわける」やり方が間違いです。根本的に「物質は運動せざるを得ない」仕組みがわからねば、なぜ「生じる」のか、その動機が何なのかわからないです。
      物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。物質と運動P_は一つの実体の・・・・。物には量、事には質があります。事の質とは情報(記憶)です。情報を蓄えるにはわずかばかりの運動P_が必要です。「情報とは何か?」がここ何年かの課題です。最近、何となくわかってきました。
      物にも事にもその本質はありません。これは確かです。別の次元軸上にある実体がすべての原因です。求めている物質科学のヒントがこの辺りです。

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