「死」は自然の 循環 の一部

これまでに岡潔が名付けた物質的自然は 循環 であることがわかっています。物質的自然は、自然科学者が対象にする自然のことです。「【 3】 五感でわかるもの」を参照ください。

人は五感でわかる物や事について、数学を含む言葉で言い表します。言葉は互いに規定し合うことにより成り立っています。つまり、 循環 です。人は言葉により思考します。ですから人の思考もまた循環です。ですから、人の五感でわかり言葉で言い表せる物や事は、循環としてしか扱えません。物や事のわかる(測定できる)範囲は、観測機器や測定器の発達により拡大してきましたけれど、すべて 循環 の内にしか整理できません。この循環を逃れる術を知りません。

表1

この手法を還元主義といいます。つまり、「わからないものを要素にわけることによりわかる」とするものです。 そのわかり方は、意識を通し言葉で言えますから、その思考も循環になります。だから、自然科学は循環なのです。

図1

例え物理量ではない時間を用いたとしても、その科学もまた循環にならざるを得ません。これが岡潔の云った第1の心の構造です。

 

人は機械装置と同じで、いつか必ず壊れます。100%の確率で死ぬ訳です。どうも、死は自然の 循環 の一部のようです。現代において、死は日常から隠されています。人の死は身近にありませんから忘れていますし、死について考えることがありません。しかし、死は人の発達の過程に必須のようです。循環の一部に組み込まれています。

年老いて死を身近に感じるに従い、人生を振り返って整理すべきと考えます。確か、G・アダムスキーの高弟は、高齢になると静かに余生を送ったということですし、ヲシテ文献で云えば、トヨケさん(豊受大神:伊勢神宮外宮)は死期をさとりイナホラ(辞洞)に籠もったとされます。トヨケさんは、元伊勢の一つである籠神社の奥宮にあたる眞名井神社付近に辞洞を掘らせて籠もったとされます。

人生を総括しないと次の「生まれ」の際に、例えば「双六の振り出し(最初)」からやり直すことになります。2014年5月13日の記事「エリートキツネと闘牛士」を参照ください。

写真1 出典:相撲取組双六

エリートキツネ(ペットキツネ)についてのロシア人による実験は、大事なことを気付かせてくれます。例えば、人類がお金に執着するという指向を何世代も続けることで、「生まれながらにお金に執着する人の比率が高くなる」はずです。通貨を使うようになって年世代も経ちます。外見では区別は付きませんけれど、現在でも比率は相当高くなっていると思われます。恐ろしいことです。これが岡潔の畏れた「間違った思想の洪水により人類は滅ぶ」だと考えます。 管理人は、まだまとめに入ることはできませんけれども、これまでの考察について繰り返し復習することが多いです。

補足。自然は心があるために映写される映像ですから、その仕組みを別の次元軸に求めるのが「カミの仕組みと働き」です。ですから人の心(タマ+シヰ)も 循環 の一部と考えられます。すると人は死すれば無になるという考えは誤りということになり、上記の議論になります。説明が後先になりました。悪しからず。  それと、自然とは何かという大きな疑問があります。岡潔が名付けた物質的自然のことが少しずつわかりかけてきたので「自然と物質的自然の違い」も朧気ながらわかってきました。 また、弧理論は大宇宙の仕組みから心のありかまでシームレスにカバーしますので、人の死もテーマに含まれます。悪しからず。

 

Φ について

2010年より研究しています。
カテゴリー: 解説 タグ: パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です