「情 知 意」の働きと「想念」の関係について

前々回の記事「岡潔の「情」と「もののあはれ(物の哀れ)」 ・・・・ミヤビ(アワレエダとナサケエダ)とは何か?」の続きです。

前々回は、「もののあわれ」を参考に縄文哲学のミヤビの内のアワレヱダがどのようなものか考察しました。単なる思いつきに過ぎませんけれど、ナサケヱダのみではうまく説明できないため、多少強引に結びつけました。しかし、縄文哲学を考えたその時代の人々は、凄いことを考えていたのだと感心します。

物を見て五感でわかる。「分けることによりわかる。」ということは、既にして言葉で云える事柄ですから、「意」の段階に過ぎません。 物の理ことわりに何の疑問も抱かないというのは、自分を含めて困ったことです。「五感で分かる」ことの意味は、

五感でわかるスケール表1

により理解できます。 五感は、極大極小の内にフェードアウトします。

今回は、数学者岡潔の考えた「情 知 意」の働きと「弧理論から見た想念の働き」を他を交えて比較してみようと思います。

G・アダムスキーによれば宇宙哲学を図示したり図化することを禁止していました。これが誤解を生むことにつながるからという理由だったと記憶しています。しかしながら、管理人は、G・アダムスキー教ではありませんので誤解を恐れずあれこれやってきました。 余談ながらG・アダムスキーにより「宗教にしてはいけない」といわれながら、これを学ぶ人たちは、宗教にしてしまっています。おかしなことです。

jyoutiisounen図1

について、上下左右に欄を設けます。上方は「顕在」であり、下方は「潜在」です。左に、下から岡潔が述べた「情 知 意」です。中央に縦の波線で示したのが「弧理論の考え方による想念の働き(考えられる経路)」です。右側には、比較として縄文哲学での表現並びにG・アダムスキーによる宇宙哲学での表現を配置しています。

横方向に見てみます。上の段(顕在)について。岡潔のいう「意」は、第1の心(浅い心)に相当します。これは意識を通しますし、言葉で云うことができる段階です。能動的でもあります。 縄文哲学でいえば「シヰ」に相当します。生命維持の欲求です。宇宙哲学でいえば、センスマインド(sense mind)であり、これには肉体に備わった感覚器官がつながっています。五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚並びに触覚の内のtouch)です。

下の段(潜在)について。岡潔のいう「情」は、第2の心に相当します。これは意識を通しません。言葉でいうことはできない段階です。目で見てふれて、物や事の趣おもむきがわかる(情じょう)の世界です。受動的であり、静的です。縄文哲学でいえば「タマ」に相当します。タマは、ココロバ(真心あるいは良心)とタマ、ミヤビです。宇宙哲学でいえば、ソウルマインド(soul mind)で、心の本体です。触覚の内のfeelに相当します。

ここで、弧理論の考え方によれば「想念」は、「波」に近い性質を持っており、「位置を持たない」と考えられます。

物質(結果)に実体(原因)図2

弧理論の考え方の基本は、余分な次元軸をエネルギー軸(E軸)とし、横軸を3次元物理空間(M軸)とする2次元平面で表します。 E軸上の実体が持つ真のエネルギーが積分を伴う回転投影によりM軸上に位置を持つ物質(質量)となります。 情報を蓄えるには僅かばかりのエネルギーが必要です。このエネルギーは「時間を含む」エネルギーとして定義されていますけれど、E軸上の実体が持つのは、「時間を含まない」エネルギーであって、これを真のエネルギーと呼んでいます。 この実体が持つ真のエネルギー値は、質量と「時間を含む」エネルギーの2つの側面をもってM軸上に現れます。これがいわゆる「物質は時間を含むエネルギーに転換するし、逆にもなる」とされる由縁です。

ここで、実体が持つ真のエネルギーにより投影された物質にかかる「すべての知識・情報」を蓄えることができると考えます。宇宙のすべての物質の位置と配置並びに組み合わせです。 これが究極の記憶装置だということです。 そして、実体と物質の間を取り持つのが「想念」だろうということです。想念は、図2において、実体と物体(物質)を結びつけているようです。 ですから想念は、生体の「神経系」に生理学的電気を発生させることができるのではないか?ということです。 かつ「位置を持たない」ので「想念は伝わる」ということです。  これが人の心の「情」と「意」をつなぐと考えられます。

そして、その経路には2つの経路が考えられます。

経路① 人の心の深いところに働く。意識を通さない。肉体に備わった五感を通さず、何らかの「趣」が生じる。 これは言葉では云えない性質のものであり、感情とは異なる。極めて静的であるから「弱く小さい」。 日常生活に紛れて、ほとんどの人は、これに気付かない。気付くことができても言葉で云えない。

経路② 人の心の浅いところに働く。五感を通すため、直接「意」に至る。能動的であって「強い」。 当然人は気付くし、言葉で云えるとともに、感情に結びつく。

G・アダムスキーによれば想念の経路は多くあって、例えば他者からのみならず、その人の人体間に通ずることも多いらしい。 経路①に気付くことを勧めるために、「想念観察」が推奨されました。

経路2は、過去記事に記した「ヒトラーのあいつ」であったり、G・アダムスキーがやってはいけないとした「ブードゥー教やこっくりさん」などがあります。過去記事を検索して参照ください。 一般的には心霊現象あるいはオカルトとされるものです。 出口なおや出口王仁三郎におりたとされる神がかりや岡本天明におりた自動書記などもこれにあたります。

大事なのは、この仕組みに「神と悪魔」「善と悪」というような「白黒をつけるものではない」し、「対立があるわけでもない」ということです。そういう「仕組みが在るだけ」ということです。

ですから、経路2におけるすべてが誤りであるとか、正しいというわけでもありません。以前、本屋で「小さいおじさんの妖精」について書かれた本がありました。作者は実際に見たり聞いたりしたのだと思います。それが本人の五感に直接働くからです。でもM軸上において物質的実在であるかどうかは、別のことです。ほとんどの人がこれを誤解しています。

(たぶん)E軸上の実体が持つ知識・情報が経路1にかかる経過を経て「情」としてわかり、やがて意識下から意識上の「意」に至るプロセスを「」というのだと思います。(図1の大きな矢印) そうでなければ「情」がやがて「意」に至るはずがありません。

「知」が働くとは、目で見て、耳で聞いて、ふれることにより物や事にかかる趣(情)がわかるとともに、想念の働きにより「松」は「松」として言葉で云える「意」へと至ることをいうのだと考えます。

そして、シラス・ウシハクのシラスの元である「シル:知る」こそが経路1であろうということです。それが時代を下るとともに単なる「呪術」に成り下がったということです。 ついでにいえば、現代の支配者たちが行っている悪魔崇拝もまた、経路2にかかるものだということです。紙幣や硬貨、クレジットカードなどの「お金の偶像」を崇拝するシャーマニズム(神頼み)の時代です。これがG・アダムスキーがやってはいけないとした「ブードゥー教やこっくりさん」の意味です。

過去に

想念とチャンネル図2

を示した記事を書きました。 C想念のチャンネルにおいて、右側ほど「強い・明瞭」、左側ほど「弱い」としています。 これが図1での経路①並びに経路②であるわけです。Tタマシヰの均衡は2つを合成したものとなります。  正直いえば図2は、分かりにくかったと思います。しかしながら図1と比較してもらえば理解は進むと思います。  ちなみに図2の上段、G偶像の欄に「時間の偶像」たる「時計」が入っていません。入っているものとしてご覧ください。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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