自然科学の限界 <分かる>と<知る>

数学者岡潔は、講演「(4)自然科学は間違っている」で、次のように述べています。

  1. 自然科学者は「分かる」と思っている。
  2. 顕微鏡で見るとか、工夫してもよい。しかし、最後は肉体に備わった五感で分かるものでなければいけない。

1.の「分かる」の語源は、「分ける」ですから

分ける→分かる→理解する→モノの理(ことわり)を解(かい)する→文字通り「物理」のこと→自然科学を成す ということです。

同時に、2.五感で分かるものでなければいけませんので、

五感でわかるスケール

図1 (五感でわかる範囲)

に示す赤い括弧の範囲になければなりません。図1の右端(極大)も左端(極小)も「五感の範囲」を越えています。

つまり、自然科学は、「これまでに知られたこと」を「分ける」ことにより理解しているのです。細分化しているだけで「パイ」自体は大きくなりません。 実際やられていることは、植物や微生物のDNAを解析し、有用と思われる遺伝子配列を特許申請するという、どこか腑に落ちない行為です。 行き止まりであることが自然科学の限界なのです。

「五感で知る」ことができるのは、古典的な範囲であることは明白です。 これを越えるには顕微鏡や望遠鏡を用いることになります。こうして「これまでに知られたこと」を蓄積してきました。 しかし、素粒子加速器や宇宙望遠鏡を駆使しても、「(五感による)知る」によって得られることの限界を迎えています。

例えば、放射線は、無味無臭ですから五感では分かりません。大量に浴びれば「火傷」として分かります。そして、大抵の場合、放射線は有害です。 仮に理論的に予言された素粒子が発見されたとします。そして、その素粒子を大量に浴びたとして、五感で分かるというレベルになれば「火傷」として認識されるでしょう。 理論と火傷との間には非常に大きな隔たりがあるということです。

ヒッグス粒子が理論通りに発見されましたが、管理人にはとても違和感があります。 ある種の放射線が五感でまったく分からないのと同様に、ヒッグス粒子もまた五感で分かるとは、とても思えないのです。

それに対して「知る」という行為に本来は制限がありません。「分かる」とまったく異なる仕組みによって我々は、「知る」ことができます

音楽家は、活動の性格から人前で演奏することが多いです。クラシックの作曲家

miyagawaf56 写真1 こちらより拝借

宮川彬良(みやがわあきら)氏は、某TV番組で次のように述べていた記憶があります。

「自転車に乗っているときや、乗り物で移動しているときに、新しい曲のイメージが降りてくる。」

確か、こんな説明でした。音楽理論を知っている、あるいは分かっていれば名曲が書けるかというと、そのようなことはありません。 他にも似たようなエピソードが幾つもあります。

新しく「知る」というのは、このようなことをいいます。ただし、ある人が何々することを「知った」というのは、これに含まれません。  数学者岡潔は、「自然科学は自然そのものではない。絵を描くとき画用紙があるようなもの。自然科学は簡単な模型である。」と述べています。 彼の言葉から自然科学に限界があることは、明らかなのです。

自然・宇宙を「知る」には、自然科学による「分かる」より多くのことを知ることができるだろうということです。 それが「想念は伝わる」ということの意味です。

追記

結局、五感で分かる限界が自然科学の限界だということになります。  「それ以上に何がある?」とお考えの方には、創造・創作という言葉は存在しないことになります。

 

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想念が持つチャンネルについて

過去記事、想念の仕組み(イメージの幅と事実)について、分かりにくい部分(前記記事の図4)がありましたので、もう少し考察を加えます。

図1は、想念のチャネルについて説明しています。 上段からG偶像、I想念、C想念のチャンネル、そしてTタマシヰ(2つのマインド)の均衡です。 G偶像は、仏像や宗教絵画など信仰や祈りの対象です。悪魔とルシファーは異なるのものなのか分かりません。モレク神は中東で崇拝されたもののようです。

 

想念とチャンネル

図1

偶像を用いるか、用いないかにかかわらず人は、様々なI想念を抱きます。何か敬虔な気持ちであったり、人に対する嫌悪感である場合もあります。 C想念のチャンネルは、人がどのような想念を持ったとしてもI想念とCチャンネルとの間に相関はないと考えられます。 というのも、チャンネルはTタマシヰのタマとシヰの均衡というか配分によって決まると考えられるからです。

例えば、A氏が持った想念は、「神の様な存在がA氏に語りかけた」ものとします。しかし、A氏は自己の執着が強くて「語りかけた」内容が世俗的な「出世や名誉欲を満たす」内容であるかも知れません。それはC想念のチャンネルでいえば、「」の領域に近いものといえます。A氏が持つシヰの発露が強く出た結果、「神の様な存在がA氏に語りかける」という想念を抱いたかも知れないのです。つまり、例え想念が「崇高と感じる何か」であったとしても、C想念のチャンネルが「」や「」の領域であったならば、あまり質の良くない想念である可能性があるということです。 ですから感じたI想念の内容とCチャンネルの間には相関がないのです。

ところがその仕組みを理解していませんと、神からの言葉として受け止めてしまうことになりかねません。なぜなら、シヰ(センスマインド)は、五感(視覚、聴覚他)につながった目や耳からの情報により抱く想念と区別できないからです。  抱いた想念は、肉体に備わった器官をとおして感じたものと同一だからです。  当然、I想念の内容が事実であるかどうかは分かりません。(簡単に言えば、A氏の潜在的な願望を実現したに過ぎないかも知れないのです。)

この辺のことを理解することが難しいためにG・アダムスキーは、何の説明もせずブードゥーやコックリさんなどの呪術をやってはいけない」とのみ教えたのだと思われます。

何せ、「呪術はテレパシーのチャンネルの一つだ」と説明すると混乱することは必至です。ですから彼の支持者たちが自ら気付くように仕向けたともいえそうです。

図1の一番下、Tタマシヰ(マインド)の均衡の欄について、説明文をホツマ辞典(池田満著展望社)より引用し作成しました。

グラフは、タマが破線で示した部分、シヰが実線で示した曲線です。シヰの特性は、感覚器官のそれですので、直ぐに飽和(あるいは麻痺)しますから、シヰの欲求は際限がないことを示しています。 ですから、例えば2千円のワインによる満足より「少し旨い」と感じる満足のために何十万円のワインを手に入れようとするのです。その差はほんの少しです。芸術家やタレントが、刺激がほしくて覚醒剤に手を出すのは同じ理由です。

はっきり、くっきり明るく楽しそうに現れる神様や精霊などには気をつけようというお話でした。

なお、図1最下段、「Gを映画やTVに置き換えるとI、C、Tへの影響は大きい」について、戦後GHQによる日本国民への3S政策などが行われたもことの理由や、現在のマスコミによるB層への洗脳に等しいことが理解できます。

 

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「時間を含まない真のエネルギーについて」を掲載

エネルギーの次元は[ML^2T^(-2)]ですけれど、「01.時間とは何か」の考察によって、時間を基本物理量として使えないことが分かっています。

つまり、時計の運動(テンプの回転運動あるいは水晶の振動運動)と対象物の運動比較しているだけで、時間はどこにも存在しないのです。

数学者岡潔の言葉を参考にして、管理人が考えた時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である

時間を起点に、これまでエネルギーとは何かを考察してきました。これらをまとめて弧理論のサイトに「03.時間を含まない真のエネルギーについて」として掲載しました。

大分、頭の中は整理できたのですけれど、まだよくわかりません。これで一応のキリとします。

 

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G・アダムスキーによる宇宙哲学とネガにある紡錘図形が同一であること

これまでの考察により、次の5つは同一のことを示していると考えます。

  1. 大本や日月神示にある○+点=ス(身魂)
  2. ヲシテ文献にある ○+点=ア アモト アウワ タマシヰ 縄文哲学
  3. 聖書ヤハウェ 在りて在りたる者 αでありω →無始無終 無辺
  4. 宇宙哲学 宇宙の意識(因)と結果(物質は結果である) 想念
  5. 弧理論(Ark Theory)の考え方 E-M軸平面 物質科学モデル

1.大本教と日月神示では自動書記により数字あるいは記号で書かれた文字に「○+チョン」があります。これを「ス」と読みます。 日月神示では「○」が身体であり、点が魂であるとしています。現代は身体である「○」だけがあり「魂」が無い状態であって、○に点を入れる必要があるとされています。これを身魂といいます。

2.ヲシテ文献には、五七調の「アワのウタ」があります。特に文字「ア」の形が○+点であって、アで始まる用例が非常に多いです。(アメ、アマ、アモト、アウワなど) ○に点の「ア」を漢字で示すならば宇宙と表現してよいと思います。

3.聖書に登場するヤハウェは、自らを「在りて在りたる者」あるいは「αでありω」としています。他とは異なる表現ですけれど、言い換えるならば無始無終かつ無辺とでも表現できます。

4.G・アダムスキーによれば宇宙哲学では、まず宇宙の意識があり、それが全ての原因である。この「因」から物質ができ人が出来ているといいます。物質は結果であり、人は結果だということです。 そして、宇宙の意識(因)から2つのマインドができます。ソウルマインドとセンスマインドです。ソウルマインドが心の本体で、センスマインドが五感にある「感覚器官の心」です。 (因)と2つのマインドを「想念」が結んでいます。 当然のこと物質は結果ですので、原子単位で想念は「在る」ということになります。ちょっと受け入れがたいですけれど理論的にはそうなります。

5.弧理論(Ark Theory)は、G・アダムスキーが残したネガフィルムにあった

図32ネガ

縦軸が「時間を含まない真のエネルギー」を示すE軸 横軸は3次元物理空間を示すM軸

図1

紡錘図形を解釈したものであって、異星人の文明の根幹となる物質科学を「弧=Ark」と名付けた上で、仮説の理論としたものです。 弧理論の考え方をもって考察を進めてきました。

弧理論ではE軸上の実体がM軸上に投影されることにより全ての物質が現れるとしています。

物質(結果)に実体(原因)

図2

「物質はエネルギー[ML^2T^(-2)]にも転換するし、逆にもなるというが本当は一つの実体の異なる面に過ぎない」

ダニエル・フライがコンタクトした異星人アラン(ある科学者)の言葉です。つまり実体が原因で物質は質量mをもって「位置」が決まるのです。

 

本題です。管理人は、以前から4の宇宙哲学の概略は承知していました。 図1が電磁気現象の一端を含んでいるらしいと気付いて、図1を物理モデルと仮定して研究していた頃に「3の聖書」と何らかの関係があると踏んでいました。やがて1の日月とも関連があるらしいと気づき、さらに歴史を調べて辿り着いたのが2のヲシテ文献でした。そこに書かれていたのが1にある○+点であったのは少々驚きでした。

でも、ヲシテ文献は江戸時代に写本が伝えられ当時の国学者が研究していた訳ですし、出口氏や岡本氏がヲシテ文献のことを知っていたとしてもおかしくありません。

そしてヲシテ文献にある縄文哲学がG・アダムスキーによる宇宙哲学とほぼ同じものだと確信したと同時に、今まで宇宙哲学はあくまで哲学であって、物理科学モデルである紡錘図形とは何の関係もないものだと思い込んでいたものが、突然「同じものだ」と確信したのです。 これには本当に驚きました。

所謂、アダムスキー信者は宇宙哲学の勉強に熱心ですけれど、ネガにある紡錘図形や足跡は、関係ないものとして「興味はあるけれど」無視してきたようです。 (過去に解析の努力はなされています。)

ここで言いたいのは、宇宙哲学で大事な意味を持つ「想念」が、弧理論の考え方の基本形である図2において考えるならば、物理現象である可能性があるということです。

時間を含まない真のエネルギー値をもっているE軸上にある実体がM軸上にある身体の神経繊維を構成する原子に作用し、電子に運動を促すということです。

20140421運動の状態

図3

つまり、神経繊維に生理的な電流が流れるということです。

E軸はM軸に直交していますので

20140516直交するE軸

図4

の様に4つの3次元空間に分けられます。 E軸はM軸上にいる我々には「位置」を特定することはできません。ですから、もし想念が物理現象であるならば、想念はA→BあるいはB→Aへ「伝搬」するのではなくて、AとBに「生じる」ということになります。想念は「波」ですらないかも知れません。

ということは、想念は無辺であるかもということです。唯一の例外は、x-y平面内において回転する物体があれば、回転軸であるz軸方向にE軸が重なるため、想念は回転体に対してz軸方向への偏り(指向性)があるかも知れないということです。

上記のある科学者は、次のようなことを述べています。

現代は物質科学だけが進んでいる。基礎となるのは精神科学と社会科学である。基礎がいつまでも用意されなければ文明は崩壊する。文明を樹木に例えるならば、現代は一つの枝を幹に代えている。正しい選択は幹の分岐点まで降りて、再び登り始めることだ。 そうすると、まず精神科学と社会科学が出てくる。その後に物質科学がくる。 また、3つの科学に明確な仕切りはない。

数学者岡潔の述べたように、「自然科学は間違っている」と思います。少なくとも現代の物理学は近似です。 やっと分岐点まで降りてくることができたと同時に、「精神科学と社会科学」=「縄文哲学と宇宙哲学を融合した哲学」から物質科学(弧理論)の芽が出てきたということです。

現在の所、縄文哲学と宇宙哲学の2つを比較検討しています。これが難しいです。  1.~5.について考えるに付け、これまで3000年から4000年くらいの計画で行われてきたと理解していましたけれど、縄文哲学を考慮すると少なくとも6000年くらいに渡る長期計画の一端であったことが分かります。

 

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時間は存在するのか?存在するかどうか分からないのに自然科学者は、時間を基本物理量にしてる

動画サイトに「時間は存在するのか?モーガン・フリーマン」というのがありましたのでメモしておきます。

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動画1

別窓のリンク、時間は存在するのか?モーガン・フリーマン

番組中で紹介されている アルミニウムイオン時計ホイーラー・ドィット方程式  についてのリンク。

時間について、実験やいろいろな考察が紹介されています。 疑問なのは、自然科学者は、「時間とは何かよく分かっていない」のにもかかわらず基本物理量としていることです。 数学者岡潔の明快な説明と比べるとだいぶん劣るようです。 右、弧理論へのリンク1.時間とは何かを参照ください。

 

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縄文哲学には「想念」にあたる言葉がない

昨日はレンタルサーバーがダウンしていました。メールも送受信できないし、FTPでの接続も出来ないため焦りました。

宇宙哲学と縄文哲学を比較しています。いろいろ気付いた中で最大の疑問は、宇宙哲学において最大の特徴である「想念」に相当する言葉、あるいは想念観察に相当する行為が縄文哲学にはないのです。

宇宙哲学は、想念観察から自己の成り立ちを理解するとともに、自己の想念をより宇宙的なものに仕向けるという手法をとっています。 ところが縄文哲学には想念に相当する言葉や観察に相当する行為(を示す言葉)が見当たりません。

縄文哲学の核心部分は次の通りです。

宇宙の中心(アモト)からくるタマと地上にあるシヰは、親からのタマノにより結ばれることにより、タマシヰとなります。このシヰに物質が集まってヒトになります。このタマ+シヰをさらにわけるとヰクラ(五つのクラ)となります。

ヰクラは、

・タマ →  1.ココロバ と 2.ミヤビ に

・ミヤビ → アワレヱダ と ナサケヱダ に

・シヰ → 3.タマノヲ と 4.ハ(シム) と 5.ネ(シヰ) にわけられます。

ココロバは、良心(真心)、アワレヱダは哀れを知る心、ナサケヱダは情けを知る心を示すようで、す。 アワレヱダとナサケヱダを合わせたミヤビは、人の社会性を示す心の働きをいうようです。

1.~5.のことをヰクラといいます。 タマノヲハ(シム)ネ(シヰ) は、今のところ何を意味しているのか理解できません。 シヰは、生命維持の欲求ですので、タマノヲを別にして、ハ(シム)とネ(シヰ)は、人の欲望の根幹であるわけです。  (ホツマ辞典、池田満著、展望社の「ヰクラムワタヲ」を参照しました。)

問題は、宇宙哲学の想念観察による手法がないと縄文哲学における心の「ヰクラ+ヲ」の構造に気付きようがないのです。ヰクラは目に見えませんから。

いろいろ探しましたところ、「ネコヱ」と「アメノミチ」の2つに想念に関する何かを含むかとも思えます。  さらに調べてみますとネコヱにはいくつも解釈がありまして、代表的には「音+声」あるいは「根+声」がありました。  前者はまさに音声ですから、臓器の一つである声帯から発する音(空気の振動)を意味します。想念を表していません。

ホトマツタエ キツノナトホムシサルアヤ の前半部分に

アワノウタ カタカキウチテ

ヒキウタフ オノツトコヱモ

アキラカニ ヰクラムワタヲ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨク ヤマヒアラネハ

ナカラエリ

とあります。概略の意味はこちらを参照ください。ただし、五臓六腑はまったく誤訳です。 その他、ヲシテ文献には上記を含めて「ネコヱ」の用例が10カ所あるようです。(ねこえ) いずれも、ネコヱに想念あるいは想念観察に相当する用法は見当たりませんでした。(難しい。)  「根+声」は、最もそれらしいのですが、10の用例には、そのよう(想念+観察)に解釈出来そうにはありません。

 

管理人の意見として、縄文の人はどちらかというと内観的です。 当時、罪人をホコ(ツルギ)で斬るにしても亡骸を腑分けして臓器の配置や機能を知ろうとしたように思えません。 ご存じのとおり「腑分け」は、江戸時代末期のことです。 縄文の人たちは、今でいう「内科」的な観察によって「ムワタ」を考えたのだと思います。ですから決して五臓六腑とは思えません。 当然のこと、「ムワタ」に声帯も含まれると考えますし、思考そのものもムワタにあると考えたように思えます。

 

また、すべてを調べた訳でありませんけれど「アメノミチ」は、「人が暮らす上で守るべき大事なこと」を示しているようです。現在の言葉でいえば、倫理観や道徳にあたりそうです。 ただ、それ以上の大事なものが含まれている様です。

アマテルカミさんの母方祖父であるトヨケさんの崩御の際に、トヨケさんはアマテルさんを呼んで、アメノミチにかかる奥義を進講されたとあります。 この奥義が何かは示されていないようですけれど、「トのヲシテ」の「」の字義を考えますと想念に関する何かであろうと思います。案外かんたんなことのように思えます。(池田満著「ホツマ縄文日本のたから」展望社p46、ホツマツタエ6 ヒノカミソフキサキノアヤを参考に)   それにしても縄文の人は、どのようにしてヰクラムワタヲに気付いたのか謎です。

「トのヲシテ」も「ロのヲシテ」も想念を念頭に字義を考えますと凄く腑に落ちます。ヲシテ文献を理解するに漢字やカタカナではダメです

京都御所にある清涼殿の東南の隅に「石灰の壇」(いしばいのだん)があり、そこで歴代天皇は毎朝祈られてきたとのことです。 「トのヲシテ」が今も続いているだろうと考えています。もしかして形骸化してるかも知れませんけれど。

 

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12星座と1ダースはどうしてできたのか。素数との関係

このところ、ヲシテ文献に含まれる縄文哲学について調べています。縄文哲学の根幹部分と宇宙哲学並びに自然科学の3つを比較検討しています。ほぼ同じものだと断定してよい箇所と異なるところなど、3者特徴があって実に面白いです。

 

以前から素数について何度か記してきたのですけれど、やはり気になります。 結論はないのですけれど、気付いたことを記します。

「1ダース12本、12ダースが1グロス」というのは、どうしてできたのかを調べましたけれど、わかりませんでした。wikiによれば「ダース」の語源となったのは、フランス語かららしいです。更に遡るとラテン語にあるようです。でもなぜ「12を基本」とするかについて納得のいく説明はありませんでした。もしかしたら誰も知らないのでしょうか。

1年が12ヶ月、干支が12,星座が12なのはなぜなのか?

vaus352

図1 12星座 こちらより拝借

こちらもネット上に様々な説明がありましたけれど、いまいちわかりにくいです。 そもそも星座の総数は、88ほどもあるようですが、12をもって季節?1年とする意味がわかりません。行き着くところ、時間は12の倍数ですし、角度も12の倍数です。

 

本題です。 どうもヲシテ文献では、天文の用語にナカクタ(天の川銀河)があります。 コホシ(九星)は、はじめてのヒトであるミナカヌシ(アウワ)と『トコヨのクニ(ヒノモト)』を建国したクニトコタチさんの8人の子である「トホカミヱヒタメ」の八元神を指し、哲学的な用語のようです。 このうちコホシには北極星(ナカミクラ)が含まれているようです。

:南  :東北  :西  :東南  :北  :西南  :東  :西北

は、それぞれ東西南北を表します。

東に日(陽)が昇り、西に沈む。北に北極星(南半球では南十字星)が存在します。  すると東西南北は意識することができますし、それらを半分割して「四方八方」を意識できます。  地上、平面に居る「人」は(自分を中心として)東西南北である四方、つまり『』を意識できます。

同時に、我々が

3dmen1

図2

3次元空間に存在していることを疑う人はいません。空間の次元軸は『』です。縦・横・奥行きです。 これを3平面と言い換えても同じです。

すると、四方×3平面とすると、4×3=12が得られます。

平面は、『四方』ではなくて、例えばXY平面ですから、2軸であるという突っ込みはなしです。 その場合も、2軸×3平面で、2×3=6という12の半分が得られます。

立体を考えるとき、(軸)の組み合わせより先に、(面)を意識するのですから合理的なように思えます。もっとも数学的知識がある我々は、(軸)を先に考えてしまうのは仕方ありません。

 

手指の数である『5』を基本とする10進法による数学システムは、(自分を中心として)宇宙を等しく分けるには不便なようです。 ある科学者は述べました。

12進法を基礎としたシステムがもっとかんたんで有用で、本質的により可分性があるとわかったんだ。知ってのとおり12は、2,3,4,6で割り切れるが、10は、2と5でしか割れないんだ。

 

数学の難題であるリーマン予想から派生してわかった知見に「素数は、宇宙の構造(法則)となんらかの関係がある」というのがあります。 でもこのままでは解決に至らないようです。 なぜなら、数学者たちは10進法の素数列と「12進法に馴染む宇宙」を比較しているからです。

この点に気付く数学者が現れたとき、3次元物理空間での物体の運動とエネルギー軸のことに気付くように思います。 弧理論によるエネルギー(真のエネルギー値)は、時間を含むエネルギー[ML^2T^(-2)]とは異なるからです。

 

追記

ヲシテ文献では、ヤマトコトバは、48音韻で出来ているといいます。子どもたちには手習いとして「アワのウタ」を教えたそうです。

awanouta

図3 こちらより拝借

図3のミ1-19からをカタカナに書き直しますと

アワノウタ
カダガキウチテ
ヒキウタフ
オノツトコヱモ
アキラカニ
ヰクラムワタヲ
ネコヱワケ
フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ
コレミノウチノ
メクリヨク
ヤマヒアラネバ
ナカラエリ
スミヱノヲキナ
コレオシル
(ホ1-5~1-7)   (下線は引用者)

アワのウタは、

awauta2

図4 こちらより拝借

左より横書きです。 「あかはなま いきひにみうく・・・・」と続きます。注意として「ゑ、ヱye」並びに「ゐyi」はそれぞれ一音です。  アワのウタを声を出して読みますと、メクリヨクなり、ヤマヒアラネバ、ナガラヱるとされます。

で、アワウタを円形に並べたものが

フトマニ図

図5 こちらより拝借

【モトアケ】あるいはフトマニ図といいます。 中心にあるのが、アウワで、宇宙の中心を意味します。このフトマニ図は、ヲシテ文献にはないようです。後世のヲシテ文献を研究した研究者により作成された図のようです。 実は、フトマニ図をネットで調べますと、ほとんどの解説がオカルトです。

で、フトマニ図は、アワウタ48音を円形に並べています。(アウワは別) 内周から8+8+16+16の計48音です。これが、季節並びに方位を表しているようです。図5は観てのとおり8並びに16で分割されています。

方位としては『四方八方』が出てきますけれど、12の倍数ではありません。管理人が気になったのは、人の声(コエ)がヨソヤコエ(48音)で出来ている(ネコヱワケ:根声分け)ことです。

一般に、日本語は

gojyuuonn1

図6 50音表 こちらより拝借

50音でできているとされますが、音の数は46です。50音表は、12の倍数ではありません。  「や」行に「ゐとゑ」を入れますと48音になります。

アワウタの48音は12の倍数です。方位(季節&角度&時間)を12の倍数で表せていませんが、何か深さを感じます。 因みにコエ(発音)と一対一ではないアルファベットは26文字です。

 

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「五感でわかるもの」をHPに掲載しました

拙ブログに書き綴ってきました「物質」とは何か。自然科学は物質をどのようにとらえているのかを数学者岡潔の言葉により考察してきました。

過去記事をまとめたものを「五感でわかるもの」として、弧理論のサイトに掲載しました。

 

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三種神器(ミクサタカラ)【カガミ・タマ・ツルギ】は象徴であり、真のタカラは【精神科学・社会科学・物質科学】である

水銀を用いた単極誘導モーターの実験を3月頃に終えてから、種々模索した結果辿り着いたのは、縄文哲学でした。  その神髄たるところは、タマ+シイ=魂であって、弧理論の考え方(紡錘図形の解釈の仕方)並びに、G・アダムスキーによる宇宙哲学(宇宙の意識たる因+2つのマインド)とほぼ同じと感じました。 3つが同じ事を示しているとわかりました。

縄文哲学に出会う何年か前から、いわゆる三種の神器

神器49写真1

八咫鏡八尺瓊勾玉草薙剣)は、ある科学者がいう3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)に対応するのではないかと考えていました。

縄文哲学に出会うことによって、この考えに確信が持てたのでメモしておきます。

 

ヲシテ文献に示される縄文哲学によれば、三種の神器は、三種神器(ミクサタカラ)と呼び、カガミ・タマ・ツルギが3つのタカラであると説明されます。

カガミは、

kagami2写真2 こちらから拝借

八咫鏡(やたのかがみ)であり、伊勢神宮にご神体があります。皇居にあるのはレプリカとのことです。

タマは、

magata4写真3 こちらから拝借

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)であり、皇居にあるとのことです。

3つめのツルギは、

turugi5写真4 こちらから拝借

草薙剣(くさなぎのつるぎ)であり、熱田神宮のご神体です。

 

人の自我は、G・アダムスキーによる宇宙哲学によれば、次の6つの感覚でできています。  我々の五感は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚から成りますが、これが6つに分類できるのです。

3つの障碍を持った

H_Keller1888写真5

ヘレン・ケラーは、視覚・聴覚の障碍のため手話により意思の伝達を行いました。 つまり、視覚、聴覚が働かなくても自我は存在するのです。では、味覚、嗅覚、触覚(touch)は、どうでしょうか。いずれも自分が自分である感覚は残ります。 G・アダムスキーによれば、自我の本体は触覚(feel)だといいます。

つまり、我々の自我は、六感【視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚(touch)触覚(feel)】から成りたっているということです。

そして、喜怒哀楽が生じるのは主に五感(感覚器官の心)であり、真の自我は触覚(feel)であるというのです。

 

前者を感覚器官の心、即ちセンスマインド、後者を自我の本体としてソウルマインドと呼びます。この2つのマインドが「自分が自分である」という心の本体です。

 

縄文哲学を知ったとき、このタマ+シイ=魂が宇宙哲学の2つのマインドに対応していると感じましたし、同じものだと確信しました。  つまり、タマがソウルマインドであり、シイがセンスマインドです。

 

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動画1 チャンネル桜 2:30~池田満氏によるタマ+シイの説明

 

タマは宇宙の中心より来たりて、地上のシイに結び、そこへ物質が集まって人となるわけですから、まったく宇宙哲学と同じです。

いつも引用するある科学者は「3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)が基本であり、現代文明は、物質科学のみが先行している。このままでは、文明は崩壊する。」と警告し、文明を樹木に例えて「低い枝の一つの幹が現代文明である。先へ進むには、一旦幹の分岐点まで戻り、やり直す必要がある」と述べました。そして、分岐点に戻ってやり直すならば、「まず、精神科学と社会科学が出てくる」といいました。

冒頭述べた2つのマインドは、精神科学です。 一方で、管理人がこれまで行ってきたのは、G・アダムスキーが残した紡錘図形を解釈することにより得られたのが弧理論(Ark Theory)です。弧理論の考え方は、物質科学の基本です。そして、弧理論の考え方の基本形である

物質(結果)に実体(原因)図1 (弧理論の考え方による基本形)

が、縄文哲学のタマ+シイ=魂、並びに宇宙哲学のソウルマインド+センスマインドに対応していることに気付いたのです。

 

過去記事において、図1のE軸上の実体は「究極の記憶装置」である可能性を示しました。どうも、E軸上の実体は、宇宙の(因)である可能性があるともいえそうです。

すると、宇宙の(因)からのタマとシイが結びついてタマ+シイ=魂となり、それにM軸上の物質が集まって、人となるのです。

 

まったく驚くべき事です。弧理論の考え方は、物質科学の基本です。そこから精神科学の核心部分が出てきたのですから。

G・アダムスキーによればソウルマインドとセンスマインドは、いずれも想念(イメージ)で結ばれています。宇宙の(因)即ち宇宙の意識と自我の本体であるソウルマインド、並びにセンスマインドの間のやりとりは、想念(イメージ)により行われます。

センスマインドは我が儘です。縄文哲学でいえば「シイ」であり、生命維持の欲求ですから、我が儘の想念は(5つの感覚器官の心)より発せられます。大事なのは2つのマインドの調和です。 だからG・アダムスキーは想念観察を勧めたのです。

本題です。

・三種神器(ミクサタカラ)で大事なのは、タマです。タマは縄文哲学のタマであり、精神科学です。精神科学とは、タマ+シイ=魂であり、2つのマインドのことです。図1の構造を思い出してください。 タマは宇宙の(因)よりくる「心の本体」です。シイは生命維持の欲求であり、5つある「感覚器官の心」です。このタマとシイの調和こそが最も大切なのです。 タマシイ(魂)は想念により肉体につながるのです。同時に宇宙の(因)ともつながっています。

現代文明は、シイの暴走に他なりません。

・三種神器(ミクサタカラ)で次に大事なのはカガミです。己を映すカガミとは、社会のことです。社会科学のことです。タマ+シイ=魂の調和がとれるならば、皆が力を合わせて社会をよくすることができます。ここに「トのヲシテ」の理念があります。  タマとシイの優劣によりカガミに映した社会はどのようにでも変化します。「トのヲシテ」が大事である理由がここにあります。

・三種神器(ミクサタカラ)のツルギは、物質科学です。

G・アダムスキーが残した紡錘図形を解析することにより、物理学の一端を解明しようと努力した結果、得た弧理論の考え方とは、物質科学です。 過去記事にありますように、現代文明の根幹である自然科学は間違っています。 数学者岡潔が述べたように「時間」が問題であることは明白です。解決の糸口が弧理論の考え方にあるはず、と研究を進めてきました。奇しくも、ある科学者がいうように、ひょっこりと精神科学と社会科学の芽が出てきたのです。ですから、物質科学の行く末は弧理論にあると考えています。そうでなければ、弧理論の考え方(基本形:図1)から精神科学がでてくるはずありません。

ツルギは、人を殺す道具であると同時に、草を薙ぎ拓く利器でもあります。人の生活を拓く利器としてのツルギである為には、まずタマがシイを抑える必要があります。

人が優しく賢くなれば、己を映すカガミである社会が善くなります。そして初めてツルギを役立てることができるのです。

ここに示された3つの科学において、善悪はありません。在るのはその仕組みです。(図1)人の未来は選択によっているのです。

三種の神器(八咫鏡八尺瓊勾玉草薙剣)は、例え博物館にあっても、見学に来た人と学芸員にしか関係ありませんし、その価値は、何千億円しても有限です。 むしろ、「お金」に組み込まれた情報としての価値はゼロなのですから、お金に換算するのは意味がありません。  文化遺産的価値はあっても象徴に過ぎません。  本当の価値は、タマ+シイ=魂の調和と調和によってもたらされる社会にあるということです。それを象徴したのがミクサタカラなのです。

恐らく、アマテルカミさんが「ミクサタカラ」を設けたのは、人の心と社会を表す象徴としたかったのだろうと思います。 また、神器であるタマの内に、クニトコタチさんによる建国の理念である「ト」の再建を願う気持ちを込めたのではと推察します。 何故なら、アマテルカミさんによる最初のミクサタカラは、「トとカガミとツルギ」であったことから理解できます。(注:池田満著、展望社、ホツマ辞典p260アマカミの表を参照ください。)

 

図1に示すような、タマ+シイ=魂の仕組みにおいてとても大事な特性を見て取れます。エリートキツネと闘牛士の記事にあるように、人類が「お金を巡り」何十世代も生命維持の欲求であるシイの強化を続けるならば、「生まれながらに強欲で犯罪者となる」確率が高くなるということです。繰り返しますが、この仕組みに善悪はありません。我々の選択によって、この混乱の世界ができあがっていることを強く自覚すべきです。

イメージの幅図2

に示す想念の選択によって、次第に世界が混乱してきたのです。  偶像たる仏を拝んで、心の内に名称:悪魔を宿すのは、想念に神頼み(シャーマニズム)があり、その「願い」を形代(かたしろ)たるお金に託しているからに他なりません。

形代とお金図3

なお、クニトコタチさんによる建国の理念である「トのヲシテ」の「ト」とG・アダムスキーによる想念の間には、何らか関係があるように思われます。

 

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「時間とは何か」 をHPに掲載しました。

これまで拙ブログにて、何度か「時間」について取り上げ、かなりの期間に渡り考察してきました。 これら考察した結果をまとめて、弧理論のサイトに掲載しました。

時間とは何か

 

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