不確定性原理の解釈「ΔxとΔp_は一つの実体の異なる面か?」

最近、 不確定性原理 について考えることが多いです。 不確定性原理 に思い至る切っ掛けは、ある科学者の言葉からです。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギー※1の同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギー※1に転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギー※1も一つの実体の異なる側面に過ぎない

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー※2面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギー※2の量は、一定の観測者にとって質量エネルギー※2軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギー※1を見るだろう。

彼のこの言葉は、2010年に研究を始めてからずっと考え続けてきたテーマです。ここでエネルギーという言葉は、2つの意味で使われています。※1は、物理学で言うエネルギー[ML2T-2]で時間を含んでいます。※2でのエネルギーは別の次元軸上にあるという実体が持つエネルギーのことで、これを真のエネルギー(E)と呼んでいます。

時間は量ではありませんので、※1のエネルギーを時間を含まない運動と名付けています。下線部分を言い換えると次になります。

  • 物質は運動に転換するし、その逆にもなるという我、本当は物質も運動も一つの実体の異なる面に過ぎない。

図1 投影角により物質と運動は変化する映像。

人の感覚でわかるのはです。これを上に当てはめると次になります。

  • 物は事に転換するし、その逆にもなるという我、本当は物も事も一つの実体の異なる面に過ぎない。

で、ある科学者の言葉をよーく考えると「物質の質量mとエネルギー※1は同時には決められない?」と思えてきました。

 

その内にミクロに適用した場合は、不確定性原理と同じになるのでは?と考えるようになりました。この考え方を不確定性原理に適用すると次になります。

  • ΔxもΔも一つの実体の異なる面に過ぎない。

??ただし、運動量P[MLT-1]は時間[T]と質量[M]を含んでいますので、Pではなくてを使います。すると、質量が抜け落ちることになります。これは違う。

質量m 、 運動 、 Δx この3つの間に何かの定数が入ることにより、E=mcが成り立つのではないだろうか。

これまでの考察によれば、時間とは何かを書き下すと次になります。

  • 時間とは過ぎゆく運動の記憶により、人が抱く観念に過ぎない。

では、「運動から作った時間が人の抱く観念に叶う?のは何故か」というのが永らくの疑問でした。どうも、それが何かの定数により成り立っているのではないかと感じます。

この疑問について、研究開始直後、ブログを始めたなりのころ、”粘性”という言葉で表現しています。

2012年2月14日「(天動説:地動説)と(素粒子論:弧電磁気論)

今読んでも意味がわからないのですが、それでも何とか感じていることを伝えようと苦心しています。

 

人の感覚でわかる物と事の内、事には種類があります。

事 運動 速度 加速度 熱 圧力 波(波動) 孤立波(ソリトン)=素粒子群 等

例えば、音(音波)は物ではなく事です。電子と電子波あるいは光子(photon)は一つの実体の異なる面であるようです。電子は物で、電磁波や電子波、あるいは光子が事です。

で、電子と光子の性質として離散的、確率的に現れるのですが、その原因として冒頭のある科学者の言葉からの帰結です。つまり、量子力学は、実験の事実の解釈そもそものが間違っているということです。量子力学の誤りをある科学者次のように述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

心で描けないのは致命的です。 注:2つの心において、整合性がとれないという意味です。粒子で波であるという実験事実をそのまま解釈しては、第2の心で描けません。ですから、第1の心による数学に頼らざるを得ないということです。

 

以上をまとめます。

物質と運動、つまり、物と事は別の次元軸からの投影による映像だということです。そして、不確定性原理も量子力学としての解釈(波動性と確率的に離散値を取る。多種類になる素粒子群)も映像だとすると無理なく理解できるということです。※3↓

何らかの定数からマクロだと光速度cが得られ、ミクロだとプランクの定数がえら得るのかも知れません。時間とは何かと随分考えてきましたけれども、まだよくわからない点があります。 【2】自然科学者の時間空間から岡潔の言葉です。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。

また、「時間という計量的なものはない。」と述べています。

しかし、時間は人の生活に概ね比例して起きていると感じています。その元となる原理がわかっていません。その疑問に対する一つの考え方となれば幸いです。

時間は自明ではないし、空間も自明ではありません。

 

※3 物は基本粒子である陽子・中性子・電子の3種しかありません。基本粒子にかかる別の次元軸上にある実体が互いに干渉し合ってである素粒子群が出来るのではないかと考えています。つまり、素粒子は3の倍数の種類が発生すると考えます。

陽子衝突によって陽子が崩壊してクオークを介して、直ちに素粒子群が生成されるのではなくて、衝突により陽子が消滅し、素粒子群が生じると考えます。そもそも多数の素粒子群を分類することにより、その本質がわかるとは限らないと考えます。

 

追記8/21日 仮に「質量m 、 運動 、 Δx」を投影角θを用いて関係を結ぶことが出きれば、質量と運動の関係について、時間を用いずに記述できるのではないかと感じます。

図2 例えば、質量mの電子と運動の一形態である光子は一つの実体Cの異なる面

すると”事”である運動、即ち速度、加速度、熱、圧力や波(波動)孤立波(ソリトン)=素粒子等とともにその他古典物理学である流体力学や固体物理など、量子力学の部分を除くすべてが記述し直せるようにも思えます。

少なくとも現状、自然科学は物と事の別を混同しているので、これらを整理する必要があるようです。

 

Φ について

2010年より研究しています。
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