不確定性関係 は、自然が映像である証拠 量子論の終焉

かなり前から、不確定性原理( 不確定性関係 )について考察を続けてきました。直近の記事に追記した内容を個別の記事とします。

考察にかなりの期間を経て「 不確定性関係 」は、自然が映像であることの証拠ではないか、と考えるに至りました。発端は、ある科学者のE=mc2についての言葉からですから、彼の発言の意図を汲み取るのは並大抵のことではありません。

琉球大学の講義、「初等量子力学2006年度講義録第8回第6章 不確定性関係と、波の重ね合わせ」に次のとおりあります。

不確定性というのは観測する前の状態ですでに存在している。

誰がどのように観測するか否かにかかわらず、∆x∆p > [h/2]という関係は成立しているのである。 ∆x や∆pは測定誤差ではなく、「値の広がり」を表す。つまり、「粒子は∆xの幅のどこにいるのかわからない」というよりも「∆xの範囲に広がっている」と考 えるべきである。「どこにいるのか わからない」という考え方をすると、測定手段(実験機器など)の責任で∆xが生じているような印象を与えるが、不確定性は、実験機器の責任によって生じる のではなく、物質の波動的性質によって必然的に生じるものと考えなくてはならない。

現実において存在している粒子も、不確定性関係を守っている。我々は原子や原子核の大きさをこれくらい、と測定しているが、実際にその物質がそれだけの サイズを持っているというより、その粒子がだいたいそれぐらいの範囲の中に広がって存在している(∆xがその程度の大きさである)と判断せねばならない。

下線は管理人による。 不確定性関係 は、測定機器の誤差や精度の問題ではありません

弧理論によれば「自然は別の次元軸(E軸)からの投影による映像(M軸)」です。この前提から得たのが、「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」です。そこからわかるのは、次です。

  • 物は時の現在(物がわかる:静止画)岡潔の言う情的にわかる
  • 事は時の過去(事がわかる:動画=過去の記憶による)動きがわかる 出来事
  • 図1
  • 故に、物(現在)≠事(過去)
  • 従って、物と事は同時に決まらない→これが 不確定性関係 の原因か?
  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し、循環
  • 事の一つに「波」がある

図2 弧理論による映像の仕組み 事(運動)の一つに「波」がある。 動きは動いてからしかわからない。運動は過去。

「物質の波動的性質によって必然的に生じる」という説明は、(自然が映像であるならば)納得できます。 なお、「物と事は一つの実体の異なる面」から確率が出てくるのではないかと考えられます。

 

自然科学は、わけることによりわかるとする還元主義のもとに科学してきました。相手は常にブラックボックスです。

図3 わけられたものもまた、ブラックボックス

延々とブラックボックスが続きます。この点について、ある科学者は、次のように述べています。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果遠い道のりを後もどりしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと優しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する

下線は管理人による。ブラックボックス(多数の素粒子群)が続くことで、理論が複雑になりすぎ、その複雑さ故に、「科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 」に達しているとともに、「あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになる」と結論しています。このままでは、終わりがありません。ついには多元宇宙やビッグバン理論などの抽象論に至ります。抽象とは、の行き着く先です。(何せ繰り返し、循環ですから。)

科学者たちは、一旦進むのを止めて、分岐点まで引き返してみようとすることをしません。自然は映像であるという傍証はかなりあると考えます。

考えてみたら、不確定性関係はハイゼンベルク(Heisenberg)の思考実験から始まっているのですから、本記事の内容も似たような点があると自覚します。

ハイゼンベルクと違っているのは、∆x ∆p = h(位置の変位と運動量の変位)という考え方ではなく、を時の現在過去として振り分けた点です。(時間は自明ではありません。時間はではありません。運動から作ります。運動量[MLT-1]には時間が含まれています。ここが肝です。)

不確定性関係も確率も時(現在と過去)から来ているのでしょうか?

最近の表現、「ヒトは物や事を言葉でわかっているのではない。」と関係がある? 繰り返し、循環が確率として現れている? 不確定性関係も循環の一種? 時の現在と過去の関係と言えば、因果律です。わかりません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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