現代物理学 は、音楽で言えば256ビート

現代物理学 とは、wikiによればおおむね20世紀以降の物理学のことで、相対性理論および量子力学以後の物理学をいいます。

図1 出展:Modern physics
これまで、管理人は自然科学の間違っている点を、数学者岡潔の言葉より考察してきました。

人がわかるのは”物と事”です。

  • 物の量
  • 事の質

”物”とは突き詰めると陽子・中性子・電子の3つです。”事”とは突き詰めると”運動”です。当サイトでは運動を記号で表します。以下、事(運動)の種類です。

  • 圧力
  • 時間(過行く運動の記憶に基づいて、人が抱く観念)
  • 波動(含む”ソリトン:孤立波”~素粒子群)
  • 速度
  • 加速度
  • 統計
  • 確率
  • 情報

因みに、”数学を含む言葉で言える”これらは、時の現在を含みません。(過去です。)

図2 

そして、ここのところ”情報とは何か”について、考えてきました。注意すこととして、熱や圧力と統計・確率は同じ”事”に分類されます。熱力学的エントロピーと情報エントロピーを表す数式が同じ形をしているのは偶然ではありませんでした。

動画1

ここで、表題の「 現代物理学 は、音楽で言えば256ビートのリズムに相当する。」というお話です。以下は現代物理学が置かれている位置を音楽を例えて言い表したものです。

 

2009年ごろにNHKの番組で、クラシック作曲家の宮川彬良氏が出演する「どれみふぁワンダーランド」がありました。

写真1 出展:どれみふぁワンダーランド

いつも楽しく観ていた記憶があります。

あるとき番組でリズムについて取り上げられました。2拍子、3拍子、4拍子とあって、8ビートや16ビートの例が紹介されました。そして、32ビート、64ビート、128ビートがあって、ついには256ビートが紹介されました。確か256ビートのリズムは”ゴーッ”といううねるような音でした。

管理人にはわかりませんけれど、西洋音楽には音楽についての理論があります。

256ビートのリズムも音楽理論に則って考えられたものです。しかしながら、理論通りのリズムであっても、日常の音楽に利用されることはありません。(たぶん) 256ビートのリズム音楽は理論通りであっても価値のない音楽ということになります。そもそも、聞いた限りでは、とても音楽とは言えない代物です。感覚的には、ほぼ雑音です。

ここで、現代物理学と256ビートのリズムを比較します。

現代物理学は理論として確かめられつつ発達してきました。素粒子等の「現れ、消える様」を理論的に説明できます。

しかしながら、多種類にわたる素粒子群は”孤立波:ソリトン:”という”波”です。

  • 常日頃、聞きなれた音楽 : 256ビートのリズム
  • 古典的な物理      : 現代物理学

現代物理学は理論的に精密であり、1020倍ほどに拡大した観測結果とほぼ一致します。

図3 人がわかる物と事の範囲

しかし、256ビートのリズムと同じく、とても○○とは言えない代物だと感じます。感覚的にはほぼ雑音未満です。

なぜ、このように言えるのかというと、素粒子が物ではなくて、事(波)だからです。事のはいくらでも複雑化(干渉)できます。

  • 物の量
  • 事の質

理論的ではあっても、ノイズ・カオスに近く、言わば”抽象”に近いです。情報としてみた場合、価値は低いと言わざるを得ません。

「情報とは区別できる事」です。256ビートのリズムも素粒子群とそれらにかかる理論物理学は情報として価値はありません。人のわかる範囲をはるかに超えて区別できません

これまでの考察により、情報として最も価値があるのは「ゼロと1・在ると無い・アとワ」などの組み合わせです。聖書で言う「アルファでありオメガ」でも同じです。近い表現として「如来」も同じです。このあたりの語句でサイト内を検索して関連記事をお読みください。

ただし、自然数の1は決してわかりません。(岡潔) ”ア”も決してわかりません。

余談です。世に引き合いに出される右翼と左翼、資本と共産、善と悪、地獄と極楽、天国と地獄、神と悪魔などもある人たちにとって価値がある情報とされます。皆、理由は同じです。総論はいいけれど、議論の内に何が何だか混乱して結論が出ないのは、話(事)の内容が抽象化するからです。善悪の話ではなくて、そういう(第1の心の)仕組みなのです。

ここで、昨年までに提唱した仮説、”境界空間”についてです。別の次元軸上にあるアとワが情報として最も価値があることがわかります。アとワの関係は、決してエントロピーが大きくなることはありません。究極のエネルギー源です。

次のgifが境界空間の模型です。

gif1 境界空間を説明する模型 (面=空間 水滴=物 水滴の移動=運動 波=素粒子 に例えられる)

適当な容器に青い水と灯油を入れたものです。境界面を観察する動画を撮っていて、偶然撮影できた様子をgifにしました。

岡潔が空間について「空間は量的質的にありません。」と述べています。また、「本当に実在するのは心だけである。」と述べています。我々がわかるのは水と灯油だけです。境界面は量的に質的にありません。この模型の次元を一つ上げたのが空間であり、宇宙です。

何もない面(空間)に水滴(物)が現れ、少し移動(運動)するとともに、波(波紋)が現れます。gifの例では、波は孤立波ではありませんが。一応、波を素粒子に見立てることができます。

  • 弧理論では、”物と事”は一つの実体の異なる面に過ぎない。

極端に遠くのブラックホールも極小領域でのヒッグス粒子も理論通りの振る舞いをしているからといって、その理論(事)に価値があるとは限りません。自然は別の次元軸上からの投影による映像だと感じます。

万華鏡を覗いた際の規則的で綺麗な模様視野の外れに模様の仕組みにかかる根幹があると考えるのは間違いです。

写真2 万華鏡には”繰り返し”が現れる

本当は、鏡を組み合わせたごく簡単な仕組みであることは、周知のことです。

図4

  • 自然は別の次元からの投影による映像である。

○○:有用

 

追記4/7 最も価値のあるアとワの間を「物と事」にわけたのがヨソヤコヱ(48音韻):アワウタです。

図5 アワウタ48音図

母音を物、子音を事として5×10引く2で、48音です。ですから、日本語には物と事という区分が最初から整理されているということです。実に合理的です。考える切っ掛けはヲシテ文献の次でした。実に深いです。

  • イクラムワタヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ
  • イツイロノ ハニモテツクル モリノカミ(ミメカタチ)

アワウタには、の内に、無駄に抽象は含まれていません。既出ですが、”神”の字義は示す偏に雷いかづちです。”示”の文字は供物をのせる祭壇です。雷は祭壇の向こう側にある人知を超えた存在をいいます。つまり、ヨソヤコヱには”神”のような超自然的な何かを最初から含んでいないということです。ここから、日本教と呼ばれる日本人の特性神仏より人間の都合が優先する)が出てきたようです。興味がおありでしたら、過去記事を検索ください。検索ワード「日本教、善導大師、イクラムワタ、ヨソヤコヱ、如来、2つの心、他力、弛緩と関心」

岡潔による2つの心について、各資料より整理したのが次図です。

図6 自然科学には「気づかされる」という仕組みがない。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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