数学者岡潔の「 精神統一 」について

数学者岡潔は書籍や講演で何回か「 精神統一 」という言葉を使っています。気になるのでネットから3つ引用した上で管理人の考えを記します。以下、引用文中の下線は管理人によります。

1.岡潔講演録「岡の大脳生理」、【2】 すみれの言葉(1)より。

数学以外の景色その他が目に入ろうと、入らなかろうと、全然無関心である。私はそんなものには一切関心を持たない。つまりその時期には、完全な精神統一が行われているのである。そして色々のことがわかってくる。これが情操型の発見である。

 だから、この情操型発見のためにぜひ必要なことは、大脳前頭葉が関与しなければ決して判断できない、という癖をつけてしまうことである。でなければ、禅の臨済宗の人がしているように、景色など一切消えるのでなければ完全な精神統一はできない。学問における情操型の精神統一というのは、これに反して、景色は見えているが、それに何の関心も持たないという型のものである。

 なお、このときどんな喜びが伴うかというと、長閑な春のような感じである。

下線部分に述べていることに同意なのですが、これをもって精神統一と云っていることがどうにも理解できません。それに禅の臨済宗の僧が「景色など一切消える」よう仕向けるのは理解できません。僧の目的が何なのかわかりませんし、目的が悟りであるにしても人は具体から離れてはあり得ないことと考えます。

2.岡潔講演録、「【10】 右の内耳」より。

で、夏休み中ぐらい、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。まあ、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く、これをやりなさい。観音菩薩はこの1つの修業だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。そう云いましたね。

 そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。

同じく、「関心を集めて聞こゆるを聞く」にも同意なのですが、これのどこが精神統一なのか、さっぱりわかりません。右の内耳に結構拘っておられたようですけれども、よくわかりません。

3.ブログ「環虚洞:百学連環」にある「抜粋 岡潔の最終講義 (『 数学する人生 岡潔 』 森田真生編 から)」の記事より。

大宇宙は一つの心なのです。情だといってもよろしい。その情の二つの元素は、懐かしさと喜びです。p35

情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。

わたしは数学の研究を長くやっていました。研究中は、あるわからない「x」というものを、どこかにないかと捜し求めます。捜し求めるというより、そこにひたすら関心を集め続ける。そうすると、xの内容がだんだん明らかになってくる。ある研究の場合は、これに七年くらいかかりました。p37

xがどういうものかわかってやるのではありません。わかっていたらなにも捜し求めることはない。わからないから捜し求める。関心を集め続けるのです。

わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。

数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。p38

情の働きがなければ、知的にわかるということはあり得ません。知や意は、情という水に立ついわば波のようなもの。現象なのです。

情にある二つの元素は「懐かしさ・喜び」だと云います。本当に嬉しいです。あるかないかわからない「x」というものを、探し求めるに関心を集め続けると云います。全同意です。関心を集めているときには、既に情的にはわかっていて、発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかると云うことだとのことです。これまた素晴らしいです。

余談です。2013年から2015年にかけてファラデーの単極誘導に関する一連の実験をしました。断続的に考え続けてきましたが未だ、謎のままです。発散トーラス、楕円磁場、ベクトルポテンシャル、それと弧(Ark)などです。z軸(回転軸)に非対称な単極誘導モーターを作ることによって、z軸方向に真のエネルギー勾配ができるだろう事まではわかっています。しかし、電子の実体にかかる2つの弧(Ark)について、装置のz軸方向に(どう)非対称にすれば弧のバランスをくずせるのか、どうしてもわからない状態が続いています。ほんとうにわからない。しかし、岡潔の言葉を信ずるならば、既に情的にはわかっているらしいのですから、希望が持てます。

知的に言い表そうとすることによって文化はできていきます。その過程に喜びがあります。

 

以上のように、岡潔が記した言葉に同意するにもかかわらず、それをして 精神統一 というのは理解に苦しみます。その理由は以下です。

人は新しい知見やアイディアを得るとき、人の心は「弛緩と関心」の状態にあります。当ブログ内を「弛緩」で検索すると6件ほど過去記事が出てきます。特に下記を参照ください。

  1. 2018年5月17日「弧理論による 精神科学 とは? 唯一、数学者岡潔による第2の心に近い
  2. 2018年7月10日「数学 するときの心 知見を得るときの心 精神科学の「肝要」
  3. 2018年9月21日『数学 者岡潔「自然数の1は決してわからない」 ヒントは「道具としての数学」にあった

1.の記事に示した理論物理学者益川敏英氏と漫画家手塚治虫氏の仕事に関しては分かり易いと思います。

写真1

写真2

お二人の仕事に関して目的・使う道具・作業の仕方と彼らの心のあり方をにまとめました。例えば音楽家の宮川彬良氏も同じです。サイト内を検索してみてください。

写真3

 

目的 道具 作業 心のあり方
物理学者 新しい知見 数学 紙や鉛筆を用いた思索 緊張と集中
漫画家、音楽家 作品 紙やペン、漫画用紙、五線紙、ピアノ等楽器 思索 弛緩と関心
作画、演奏の練習 緊張と集中

物理学者や数学者の目的は、発見や新しい知見を得ることです。その道具に数学があります。作業は紙や鉛筆を用いますが、思索は頭脳労働です。心のあり方は緊張と集中です。 一方の漫画家や音楽家の人たちの目的は、新しい作品を創ることです。思索は同じく頭脳労働です。道具は紙やインクあるいは漫画用紙ですし、音楽家においては五線紙やピアノなどの楽器を使います。 作業は五線紙などの紙やペンを用いた思索です。漫画家や音楽家は、ストーリーを創ったり作曲をする作業とともに作品を具体化するための作画や練習を兼ねた演奏など二種類の作業にわかれます。

漫画家や音楽家の場合、思索に対する心のあり方は弛緩と関心の状態にあります。具体化する作業とは別になります。具体化する作業には作画や演奏のための練習や曲への肉付けなどがあるかと思います。これら練習などには緊張と集中が必要です。つまり、漫画家や音楽家においては、思索と具体化の作業は異なる心の状態が必要だということです。

一方の、物理学者は、用いる道具は数学です。数学の思索には緊張と集中が必要です。論理を漏れずに間違わずに組み立てるためには緊張と集中が必要です。

緊張と集中 --- 弛緩と関心

2つの心の状態は対極にあります。数学を用いる物理学者や数学者は、その目的において作業と心のあり方が同じなのです。これが大きな問題点です。

漫画家の手塚治虫氏や音楽家の宮川彬良氏は、その思索と具体化の作業における心のあり方は、分かれています。人はその心のあり方としてうまく分散すべきなのだと考えます。 2018年3月27日「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」を参照ください。

結局のところ、西洋人はあくまで数学を心の表層で考えているようです。一方の日本人である岡潔は、数学の問題を考えるに古くからある東洋における思想哲学から学ぶ内に、知ってか知らずか「緊張と集中」から「弛緩と関心」へ心のあり方が大飛躍したのではないかと考えます。

詰まるところ、岡潔はその思索において「景色は見えているが、それに何の関心も持たない」状態でかつ「(わからないxに)関心を集め続けている」状態を 精神統一 と呼んだのだろうと思われます。これは誤解を与えるものです。 上表を観ればおわかりのように、思索の内には2つあって、岡潔は数学の問題に対するとき「緊張と集中」の前に「弛緩と関心」を持ち続けるに至ったということです。それを気付かずに 精神統一 といった言葉で表現したのではないかということです。このような大飛躍は、彼が日本人であったからこそ可能であったのではないでしょうか。 でなければ心を病んだろうということです。

 

ここである科学者が地球の物理学者たちについて述べた言葉を引用します。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

余談です。これまでの考察により、どうも不確定性原理は結果であるようです。結果として不確定性原理と見える仕組みがあるということです。

「1本何円の鉛筆を何本買ったらいくらになりますか。」という計算は単位(本・円)が付いており算数です。単位が抜けてかつ代数になると数学の範囲です。つまり、鉛筆という具体から数という抽象に移行するわけです。これまでの考察により自然科学は時間という物理量ではない数を用いた循環であるということがわかっています。

図1

そうした抽象かつ循環である数学を用いて「緊張と集中」の連続で心を病むことは明らかです。それで行き着いた答えが「ひも」であろうと「膜」であろうと同じです。

 

人の心のあり方について、ある科学者(ア・ラン)は「ぼく(ダニエル・フライ)」に次のように述べています。少し長いですが以下に引用します。下線は管理人によります。

もしぼくが目を閉じて精神を統一すれば、少なくともこの円盤の断面を見せることができるんじゃないだろうか」

「まずだめだ」とアランは少々そっけなく答えた。「一般地球人がESP(超感覚的知覚力)といっている現象を試みようとするときに、ほとんどいつもおかしている誤りを君もおかしているのだ。まず第一に、それは全く”超感覚”ではないんだ。それは各感覚器官と同様に、肉体の普通の知覚装置の一つと同じなのだ。ただし地球人はそれを使用しないために、まだ発達の初歩的な段階にある。地球の動物やコン虫の多くは人間よりも高度にこの感覚を発達させているよ。 君は生まれたときから目を開けたままでイメージによる印象をキャッチしたり分析したりすることになれている。君が初めて顕微鏡の使用法を学んだとき、接眼鏡は一つしかなくとも両眼を開いたままでのぞく方がよいと教えられたね。だから両眼を閉じてはいけないんだ。透視ビームを切ることにしよう。そうすれば心が乱れるような影響はなくなるだろう。

次に精神を集中させてはいけない。テレパシーの精神集中は送信の態度であって、受信にとってはほぼ完全な障害となる。正しく受信するには完全なリラクセーション(心身をゆったりさせること)の状態に達しなければいけない。君はこれがやれる能力をもっている。地球人のある種族の中でこの著しい能力を持っているのがある。

実際、私が初めて君の心とコンタクトしたのは、この能力によったのだ。それは三夜前だった。君はベッドに帰ったが、その日の出来事があまりに大きかったために、眠れなかったね。君は私にとって非常に興味ある精神的な方法を応用した。そのかんたんさと効果的な点で興味があったのだ。それを覚えているかね?」

「覚えているよ。すぐ寝付かれないときはときどきそれを応用しているんだ。完全な暗黒の部屋のイメージを心に描いて、その部屋の向かい側の壁面に十個の光る数字があるものとする。次にほかのあらゆる想念が意識から排除されるまでこれらの数字に自分の意識を集中する。それから十個の数字を一つずつ消してゆきながら残りの数字に心を集中するのだが、一つ消すごとに集中の度合いを弱めてゆく。普通ならまだ数個の数字が残っているあいだに眠り込んでしまうんだ。しかしどんな場合でもぼくは最後の数字が消えたあと数秒間もすれば眠り込んでしまうよ。」

「そのとおりだ」とアランが答えて「そしてこの方法は顕在意識をリラックスさせるばかりでなく、他のあらゆる想念を潜在意識の戸棚の中に返らせることになる。こうした状態下では顕在意識がやるよりもはるかに容易に潜在意識は送受信を行うんだ。」

以上の引用文である科学者が述べたことは、岡潔が云った「景色は見えているが、それに何の関心も持たず」「わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっている。これを知的にわかるようにすること(発見)」ですから、全く同じ事をのべているのです。 これは 精神統一 ではありません。これで数学者岡潔がなぜ「心を病むかも知れない状態」からこちら側に戻れたのかだいたいわかりました。

目的は発見ですから、必要なのは「弛緩と関心」です。それなのに物理学者たちがやっていることは、「緊張と集中」です。物理学者たちが如何に非効率なことをやっているのか、やってきたのかよくわかりました。それはあたかも信号機の赤と青が同時に点灯している状態に似ています。

写真4 出典:信号機の赤・青・黄色は世界共通の色だった!

それとも、自動車の運転でアクセルとブレーキを同時に目一杯踏み込んでいる状態に似ています。

写真5

 

Φ について

2010年より研究しています。
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