山崎弁栄 上人 自然は心があるために映写されている映像に過ぎない

本記事の内容は、人の心について述べています。心のあり方であったり、心の仕組みであったりします。けれども、結論は自然科学の問題点の指摘と現代文明への批判となっています。

以下は、これまでに扱った題材ばかりですが、これらの示す内容には共通点があります。むしろ同じ事を異なる言葉で述べているとさえ感じられます。記事を読んで興味を持たれたならばサイト内を検索ください。以下に概要を列挙した上で順に述べます。自然科学の「時間・空間」の問題については、過去記事を参考に。

  1. 数学者岡潔『 山崎弁栄 上人によると「自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」そう云っている。』
  2. ある科学者は云った。「(量子論による)電子は確率波を持つ粒子だという二重性をもつとの考え方は、心で描けない状態。そのため進歩には抽象的な数学に頼るしかない。」
  3. 社会学者の小室直樹は、日本教について述べた。「神様も仏様も人間(日本人)の都合による。」
  4. ヲシテ文献には、「イクラムワタ ヲ ネコエワケ」ることによって、12の倍数になる「ヨソヤコヱ」を創ったとある。
  5. ヲシテ文献には、「天体の運行(太陽と月)から、1年を12か月とすると1ヶ月30日になる。月の運行を鑑みて、隙間ができて魔物が入り込む。隙間を埋めるために32音という字余らせのウタをつくった。」とある。

 

1. 数学者岡潔は、 山崎弁栄 上人のことを紹介しています。「【3】 西洋の唯物主義」より一部引用します。

大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

本当に実在しているのは心だけだと云います。自然は心があるための映像に過ぎないということです。自然にある物や事より、心が優先すると述べています。

心 > 自然

”現代は物質文明だ”と言葉では言いますが、表面的です。心とはどういったものか考えるべきだということです。

2. いつもご紹介する、ある科学者は量子論について、次のように述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

量子論の核心部分は、人の心で描けないと述べています。粒子であり波でもあるというのは、有り体に言えば矛盾しています。自然科学の物理学は、「心<自然」という優先順位をとっていて、進歩するには抽象的な数学によるしかないということです。管理人は、何年も「抽象」という部分に拘ってきました。「心で描けない」という心の仕組みと「抽象」の間には何か関係があるだろうと考えてきました。対義語で言えば、「心で描ける」=「具体」であるはずです。人の心は、自然の内の具体に対応するのであって、抽象はある程度に留めるべきだと受け止めました。

3. 社会学者の小室直樹は、日本人の特性について述べています。

動画1

動画1で小室直樹が述べている概要です。 あ)宗教の論理は、二の次。 い)仏教も儒教も日本にくると戒律は抜けてしまった。 う)宗教の本質的な部分が抜けてしまう。 え)日本では、人間の都合が神より遙かに大事。 お)何者にもなり得ない。 か)戒律の厳しいイスラム教は入ってきた形跡がない。 き)神道には教理教典すらない。

日本教によれば、神様も仏様も人間(日本人)の都合によるのであって、人間中心だというのです。 管理人は、若い頃から「日本人は何にでも興味を持つ、実に節操がない」と感じていました。日本人は何にでも興味を持ちますが、かといって丸呑みしていません。コピーしているようでいて、出来上がった物は、元のモノとは似ても似つかないものにしてしまいます。 何を基準にこのようなことができるのか、これが不思議でした。例えば洋食です。 カレーやラーメンに餃子など今や日本食といってよいものです。 同時に、頑として受け付けないものがあります。 動画で指摘した儒教がそうです。いつ、誰がどのような理由で戒律を廃したのかとても不思議でした。最大の不思議は何故、鎖国をしたのかでした。誰がいつ、何故なのかです。その疑問には、副島孝彦著「信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた 驚くべき戦国時代の闇」に近いものがあったようです。徳川家康あたりがキリスト教の布教活動を危険だと判断したようです。

「日本人は人間中心だ」と聞くと利己的であるような感じを受けます。でも、そうではないようです。中国や朝鮮では、儒教の「仁・義・礼・智・信」をもって、「親や目上の人を敬い・・・」というのを曲解して「身内以外には何をしてもよい」というふうになっているようです。どんな教えや宗教も彼らには無意味です。  日本教よりもっと深い事情というか理由があるはずと考えてきました。

4. ヲシテ文献には、「イクラ ムワタ ヲ ネコエ ワケ」という一文があります。ミカサフミ・キツヨヂのアヤの原文と解説を「ホツマ縄文日本のたから:池田満著」から引用します。

コトハオナオス
アワウタオ ツネニヲシヱテ

アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ

アワノウタ カタカキウチテ
ヒキウタフ オノツトコヱモ
アキラカニ ヰクラムワタヲ 
ネコヱワケ フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ コレミノウチノ
メクリヨク ヤマヒアラネハ
ナカラエリ

最も基礎は、言葉。そして、言葉の基礎は、アワウタです。四十八音の中には、動詞活用の基本の四十八音図も秘められていて、声に出して朗誦しているだけで自然と言葉が整ってくるすぐれものがアワウタです。

アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ

楽器にあわせて、歌います。声の調子も良くなり、身体の調子も良くなります。 どうして身体の調子までよくなってゆくのか、その理由というのは、そもそも身体とは、たくさんの元素から構成され、出来ているからなのです。そして、たくさんの元素は、四十八音の音韻にも、同じ意味で言い表されてもいるのです。四十八音の音韻は、宇宙や世界の全体の抽象的な表現であるのです。

つまり、ヒト(人間)の成り立ちからこのことが説明できるのです。元来ヒトは、目に見えるものと、目に見えないものから成り立っています。目に見えない心を詳しく調べてみますと、五つのクラ(ココロバ、タマ、ミヤビ、シヰ、シム)から出来ていることが解ります。目に見えるものは六つのワタ(フクシ、ナカゴ、キモ、ヨコシ、ムラト、ワタ)に分けることができます。そして両者を繋ぎ止めているいるのがヲ(タマノヲ)です。これをヰクラ・ムワタ・ヲと云います。そして、これらは、それぞれが元素から出来ているのです。また別に、元素を表したのが、言葉の音韻の四十八音は元素を表し、ヒトの成り立ちも元素を根としていました。このことから言葉が通ってくれば、自然とヒトの体調も整ってくるのが道理となります。

言葉を直して、病気やまいなくの長寿に至る。

 

何故、ヰクラムワタ ヲ ネコヱにワケるとヨソヤコヱになるのか、ずっと考えてきました。ヰクラムワタに関しての池田氏の解説は難解です。目に見えないヰクラ目に見えるムワタとしています。これは意味がわかりません。現在は誰しもが五感は感覚器官からきていることを理解しています。ムワタが目に見えるものであるならば、感覚器官を意味します。感覚器官は、目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、口(味覚)、手足皮膚(触覚)の5つです。(フクシ、ナカゴ、キモ、ヨコシ、ムラト、ワタ)と6つになりませんし、呼び方も異なります。フクシは、目にあたるのか、耳なのかも不明です。そもそも、ムワタが感覚器官ならば、現在も目(フクシ)、耳(ナカゴ)というような訓読みになっていてよいはずです。

どうも、イクラムワタは、いずれももっとの構造に近いものではないかと考えます。何故なら、過去記事にしたように「二河白道(にがびゃくどう)の喩え」には、六根・六識・五蘊(ごうん)・四大(しだい)などと似たような語がでてくるからです。これらの六根・六識・五蘊(ごうん)は、直接に感覚器官を指していない場合があります。リンク先の一部を引用します。

悪獣は衆生の六根・六識・五蘊(ごうん)・四大(しだい)に喩える。また、白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわすのです。

六根とは、六識のよりどころとなる対象を認識するための六種の感覚器官で眼(げん)根(こん)、耳(に)根、鼻(び)根、舌(ぜつ)根、身(しん)根、意(い)根をいう。

六識とは、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)(認識の対象となるすべてのもの)を知覚し認識する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識をいう。

六塵(じん)とは、六識の知覚の対象となる六つの境界。色・声・香・味・触・法の六境をいう。

五蘊とは、五種の要素の集まりで、全ての存在は、色(しき)〈物質〉、受(じゅ)〈感受作用〉、想(そう)〈知覚表象作用〉、行(ぎょう)〈受、想、識以外の意思その他の心作用〉、識〈識別作用〉)の要素が因縁によって仮に和合したものであるという。特にわれわれ個人の存在についていえば、肉体面(色)と精神面(受・想・行・識)とからなるという。

意訳すれば、「六根とは六種の感覚器官で、六識とは認識の対象となるすべてのものを知覚し認識する眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識をいう」ようです。全部はわかりませんが、単純に目に見える、あるいは目に見えないの区分はどうもあてになりません。

次に、管理人の考え方です。 以下は正しいかどうかはわかりませんけれど、個人的にはまったくの見当外れではないと考えます。

これまでの考察により、人が持つ「わかる」は3つあります。

  1. わけることによりわかる」 意識を通す。言葉で云える。要素還元主義
  2. 何となく趣おもむきがわかる。岡潔の情じょう静的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。ナサケエダに通じる。
  3. 何となく動きがわかる。動的にわかる。本居宣長の「もののあはれ」。意識を通さない。言葉で云えない。記憶と関係する。アワレエダに通じる。

人の「わかる」の内、1.の「わかる」は、2.と3.による「わかる」があって、初めて成り立ちます。2.と3.により人は時(現在と過去)の中に住むことができます。2.の「わかる」だけならば、瞬きする度に相手が同一人だとわかりません。

どうも、2.の静的に「わかる」:(時の現在)が、ムワタではないかと感じます。その上で、3.の動的に「わかる」:(時の過去)がヰクラではないかと感じます。(注:3/30間違いであることがわかりました。削除します。)イクラとムワタは、いずれも人の心の仕組みです。意識を通さず、言葉で云えないそれらがあって、初めて1.「わけることによりわかる」が成り立ちます。感覚器官は最後です。その意味では、元素からできている感覚器官は結果に過ぎません。

ヲシテ文献にある「イクラ ムワタ ヲ ネコエ ワケ」による管理人の解釈は、次の通りです。

心の仕組み(ヰクラムワタ)に従ってネコヱにわけます。ネコヱとは人が聞き分けられる最小単位である音素です。音素を物と事に対応させたのがヨソヤコヱ(48音韻)です。

図1 (C)日本ヲシテ研究所池田満

ヲシテ文献に示された心の仕組みは、人の於かれた自然より優先していると解釈出来ます。心があって、心の仕組みに合った、音素を組み合わせたのがヨソヤコヱ(48音韻)だと解釈出来ます。その意味では、池田氏の解説と総意は同じです。ただし、元素は周期律表によりますから、5つではありません。5つに拘る必要はありません。事実、古代ギリシアでは、4元素説でした。 母音を態(物【元素】)として、子音を相(事【出来事】)とする5×10-2=48音韻です。おそらく、問題は12の倍数であることが重要です。

5. ヲシテ文献には、「天体の運行(太陽と月)から、1年を12か月とする」という部分があります。上記の書籍より引用します。

コノヲシエ アメノメクリノ

ミムソイエ ヨツミツワケテ  注:ソは10の意味365日余りを4×3に

ミソヒナリ ツキハオクレテ  30日になる 月は遅れて

ミソタラズ マコトミソヒゾ   30日に足りない

シカレトモ アトサキカカリ

ミソフカモ アルマウカガフ  32

ヲエモノオ ハラフハウタノ  魔物を 払うウタの

コエアマル シキシマノエニ  コヱ余る

「一年の日の運めぐりは三六五日よりすこし多いぐらいの日数があります。これを四季に分け、前中後の三節に別けると三十一日になります。つまり三十一にと云うのは、お日様の周めぐりから割り出された一月ひとつきの日数です。もうひとつ、お月様もありましたね。月は、周めぐり方が遅いのです。お月様は重たい元素ばかりが集まってできているために、周回に遅れが出るのです。それで、三十日にも満たない周期になります。しかし、本来の天体の運行の周期は三十一日ですので、月の場合は、前後が多少かかって三十一日と考えられないこともないのです。というのは、月の変わり目というのは真っ暗の新月になってしまうので、ここに魔物が入り込みやすくなるのです。

魔物に入り込む隙を与えなくするには、どうすれば良いか。その解答が、字余あまらせのウタ短歌なのです。ひと月の日数よりも一日多くの三十二音でウタを詠んだならば、月と月との間の真っ暗な日も、音韻の賑わいで魔物を寄せ付けないのです。

-略-

目には見えにくい元素のヲの周めぐりは、太陽のように三十一日です。しかし、それに備わってゆく元素のメは、月のように遅れやすいものなのです。ですから、目に見える元素たちとの間にはとくに隙間が生じ易いのです。このため三十二音にした字余らせウタが、魔物の侵入を防いでくれるのです」

一年は、「ミ10余り」でして、「エ」とは「余り」です。そして、「ヲエモノ」は魔物でして、「ヲ・エ」です。詳しいことはわかりませんけれど、解説の文脈からして、「足らず・余り」という「エ:隙間」に「ヲ」がついて、「ヲエ」と考えます。(注:研究者の池田氏はヲシテ文献の用例をすべて検討した上で、解釈されます。管理人のように解説の文脈から類推するのはヲシテ研究ではないことを理解しています。) 暦の「足らず・余り」を言葉で埋めようとしています。それが字余らせのウタ短歌なのです。

言葉(ヨソヤコヱ:48音韻)は、4.に説明したとおりです。言葉は暦より早く整えられたはずです。言葉は12の倍数です。その基礎があったから、「足らず・余り」をなくそうと工夫したに違いありません。

管理人は、ヰクラムワタ ヲ ネコヱにワケるとヨソヤコヱ(48音韻)になるのか、ずっと考えてきました。過去記事に書いたように{イクラムワタとは、「人の五感でわかる」こと}と理解してきましたが、間違っていました。正しくは、ヲシテ時代(縄文時代)の人たちは、人の心の仕組み(ヰクラムワタ)に合うように言葉(ヨソヤコヱ:48音韻)を整えたのです。訂正します。

ヲシテ時代(縄文時代)の人たちは、手指の数を元とした10進法を用いているけれど、どういうわけか12の倍数にまとめようとしています。天体の運行を観ても、できるだけ12の倍数に合わせようとしました。 実に不思議です。それが心の仕組みからきているのですから、人とは何か、自身を観察するに如何に期間を要したか、想像を絶することです。

 

まとめです。 山崎弁栄上人は、自然より心を優先だとしました。それも映像だと。 ある科学者は、現代の物理学は、心に描けない抽象だと述べました。暗に心に合う物理学にすべきことを示唆しています。これまでの考察により、時間は物理量ではないことがわかっています。これを用いた物理学は抽象へ向かっています。人の心でわかるのはであり、具体(物)です。 小室直樹曰く、「神仏も人の都合による」と述べました。より詳しくすると「人の心に合う自然をとって、それ以外は破棄する」ということです。その基準は、日本語(ヨソヤコヱ:48音韻)にあるだろうことがわかります。 ヲシテ文献によれば、天体の運行も言葉に合うように解釈します。人の心の仕組みから(言葉を通して)自然を選択しているのです。

全部のキーワードは、「自然は映像であって、映像には具体と抽象がある。」です。ヲシテ時代の人たちは、自然の内には、心に隙間ができる。この隙間に魔物が入るとして言葉で埋めました。心を優先していたことがわかります。 抽象とは隙間です。 物質的自然は次のようです。

物(具体) 隙間(抽象) 物(具体) 隙間(抽象) 物(具体) 隙間(抽象) ・・・。

「物(具体)と隙間(抽象)」の繰り返しが12の倍数であるようです。しかも再帰的な構造をしているようです。  ニュートンは物理学者であるとともに錬金術師でもありました。 その起源はオカルトです。 オカルトも科学も抽象(隙間)へ向かっているという意味では同じです。これまでの考察により、物質的自然は、循環であることが解っています。数学を含む言葉も循環です。すべてが循環であり「外のない内」です。

図2

図3 電子とは、陽子・中性子以外の物質

図4 自然科学は、量ではない時間を用いた循環

心の仕組みである2.と3.による「わかる」を除いて、すべては循環であり「外のない内」であり、心があるために映写されている映像にすぎないのです。 それ以外に考えられません。

 

その上で、現代の自然科学、とりわけ物理学は抽象へ向かっていることは確かです。 時折、フリーの物理学者である井口和基氏のブログを読みます。先日、面白い一文がありましたので「ムー4月号はヴェンターの「人工生命の誕生」:ついに白人は禁断の領域に踏み込んでしまったのか!? 」から引用します。

この問題は、西洋世界でも結構古くからある哲学的問題につながるのである。

いわゆるホルンクルスの説である。これは、ライプニッツの時代にも遡る。

生命個体が生殖細胞でできるのなら、その生殖細胞の中には人間個体のすべての情報が入るはずだ。その生殖細胞には生殖細胞の作り出す情報も入っているはずだ。もし生殖細胞に染色体があるなら、その中には人間の全情報も生殖細胞の情報も全部入っているはずだ。その染色体に人間の情報も生殖細胞の情報も入っているなら、その内部のDNAの中には、人間の情報も生殖細胞の情報もDNAの情報も全部入っているはずだ。そのDNA情報の中には、DNAの構成もすべて入っているはずだ。

とまあ、フラクタル的に

内部の中に内部の中に内部の中に、。。。内部の中に。。。

と永遠に続くのではないか?というわけだ。一番右の。。。のその先は、素粒子の中の内部から、その内部にまでずっと続くはずだ、つまり、この宇宙の全情報は、その究極の粒子の内部に入っていなければならない。
これが、ライプニッツのモナド論である。

次の記事では、唯物論、還元論について、書いてあります。「東日本大震災から8年:「過去より未来に目を向けるべき」「戦後復興をモデルにすべし!?」 」から引用します。

だから、いまの共産党のリーダーの大半は東大物理学科出身者である。

ノーベル賞をとった小林益川の益川博士も共産党だし、多くの我が国の素粒子論者は唯物論、還元論に加えて共産主義者である。日本の国立大学の素粒子論で職がほしければ、共産党でないと不可能だとすら言われたのだ。

我が国の素粒子論者は唯物論、還元論者であって、井口氏自身も「宇宙の全情報は、究極の粒子の内部に入っていなければならない。」と述べています。

唯物主義について、岡潔によれば、「五感でわからないものはないとしか思えない。」のです。自然科学者自身が仮定の上にたっていることを自覚していないのですから、岡は自然科学者を「原始人的無知」と呼んでいます。また、要素還元主義は、これまでにわかる通り、すべては循環ですから還元の探求に終わりはありません。唯物主義と要素還元主義を併せて彼らの研究方法は、最初から破綻することがわかっているのです。 これに気付かぬ内は、何も得られるはずはないということです。

先日、某TV番組を録画しました。「サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 」の著者ユヴァル・ノア・ハラリ 氏が出演していました。全部は見ていませんが、だいたいの内容は、「文明は人が持つ想像によって成り立っている。想像とはフィクションだ。ポケモンも、聖書、宗教、会社もお金もすべてフィクションだ。社会は、人が信じているから成り立っている。」とのことです。 このフィクションとは抽象です。具体ではありません。岡潔が「誤った思想が氾濫している」ということの意味がわかってきます。だから岡潔は、「このままでは人類は滅びてしまう」と危惧したのです。

このままでは、人類は滅びます。循環と抽象には、行き着く先も無いし心を病むからです。

「宇宙の全情報は、究極の粒子の内部に入っていなければならない。」ということはありえません。

 

追記 3/20  弧理論の考え方で云えば、「外のない内」に普遍的にすべてが存在します。すべての原因であるE軸は、M軸に直交して存在しているからです。M軸上から見てE軸の【位置と方向】を特定することはできません。(特別の場合を除く。)

昨年、洋画の「アントマン&ワスプ」というのを観ました。主人公のスコットが小さくなって量子の世界へ入っていく場面はCGでした。イメージとしてはマンデルブロ集合の細部へ入っていくのに似ています。

図5 出典:マンデルブロ集合の不思議な世界

同じではないがよく似たパターンが延々と続く感じです。2017年9月7日の過去記事に取り上げたとね日記での話「電磁誘導と ローレンツ力 はなぜ同じ起電力を与えるか~ とね日記よりメモ」でも理論の奇妙な相似性を感じました。何も解決していないと感じるのは管理人だけでしょうか?

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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