物質的自然が映像ならば、「投影と映像」による「時制と記憶」の仕組みはどのようなものなのか? 弧理論(Ark Theory)による仕組みについて

11月8日の記事「人間とは何か 人の「創造性」と人の思考における「時制」について」の続きです。

前回のおさらいです。前回は、数学者の岡潔の言葉「【1】 2つの心」を元に「心の時制」について考えました。

第1の心」は、「意識を通し」、「わたくしというものを入れなければ金輪際動かない」がしかし、一旦、私わたくしというものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」という心でした。

第1の心は、ヲシテ文献にある縄文哲学に示されるタマ+シヰのシヰに近いものでした。 シヰとは「強いる」のシヰであり、生命維持の欲求(喜怒哀楽)です。 は、嬉しい・哀しい・楽しい・美味しい・悔しい・腹立たしい・貧しい・・などのことです。 そして、この第1の心=「シヰ」は、時制で云うところの

図1

現在」です。 第1の心は、「私の心」、「意識を通す心」、「生命維持の欲求の心」、「現在の心」ということです。そして、岡潔によれば、第1の心は前頭葉に宿っていると云います。

次に、「第2の心」はというと「無私の心」です。私のない心です。いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない(じか)にわかる心です。そして、岡潔によれば、第2の心は頭頂葉に宿っていると云います。

第1の心における時制現在でした。では、時制を過去にもつものと云えば

図2

知る」や

図3

気(キ)付く」でした。「知る」と「気付く」には、過去形しかありません。そのほかにと云えば次のようなものがあります。

これまでの考察によれば、時間は、「過ぎ行く運動の記憶」でした。 岡潔によれば、「時間を表すには運動を使う」、「人は時(現在・過去・未来)のなかに住む」、「時間は時の過去のうちの(時は過ぎ行く)という性質を取り出して観念化したもの」だと云います。 これらをまとめて「時間とは過ぎ行く運動の記憶」だとしました。(※ですから時間と云う次元軸はありません。運動から作るのです。日本標準時をつくる) 時間は、過去の記憶と経験からくる、一つの観念(過ぎた運動の記憶)に過ぎないのです。

「お金」については、過去10年余りに渡って調べました。これも過去です。時報は、過ぎてからしか知ることはできません。同様に、

図4

お金値付けも値を知った時には過去でしかありません。たとえコンピュータを使い百分の一秒単位で取引をしても、表示された値は既に過去です。  時間お金は、いずれも過去に分類されます。

余談です。 不思議なことに、お金も時間も「量の裏付け」がありません。にもかかわらず「¥$€£・・・」や「時hours分minutes秒seconds」の単位がつきます。人類に最も大切なものとして扱われているお金と時間なのに、これは実に不可解なことです。(※the-manuscript-of-survival-part68日本語文に示された「(素粒子実験は)上手に組み立てた誤魔化しのプロジェクト」ということの本質がここにあるだろうと感じます。自然科学の先端である素粒子物理学は、時間を用いているところが「誤魔化し」要だと感じます。)

 

上記をまとめると、次のようになります。

  1. 第1の心の時制は現在である。意識を通す。
  2. 感情を表すシヰは現在である。
  3. 第2の心の時制は分からない。意識を通さない。
  4. 「知る」の時制は過去である。
  5. 「気付く」の時制は過去である。
  6. 「時間」の時制は過去である。
  7. 「お金」の時制は過去である。

では、時制の現在と過去とは何なのでしょうか。これが本記事における本題です。

 

本題の前に我々が「存在すると感じる物質的自然」とは何かについて考えます。

岡潔は講演「2つの心」【3】西洋の唯物主義において、次のように述べています。一部引用します。

大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

 実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。

今の自然科学では、自然は存在でないことはわかっているが、安定な素粒子というものがあるから、全体が映像かどうかはわからない。そういう状態です。

西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。

岡潔は、「自然は存在ではない」、不安定な素粒子を指して「少なくとも、一部は映像と云ってよい。」と述べています。

管理人は、11月3日の「唯物主義者は要素還元の「終点」に気付けない」記事において、陽子は内部構造を持たないだろうと書きました。

図5

陽子衝突実験において、「衝突→陽子崩壊→素粒子群生成」ではなくて、「「衝突→陽子消滅→素粒子群生成」なのではないかということです。 衝突の前後において、実験の過程が異なっていても結果は一緒だと云われますけれども、消滅→生成ならば、陽子に内部構造が無くて「映像」だと判断する積極的動機があるということです。 何しろクオークは単独で取り出せません。取り出せないのではなくて、存在しないと考えるのはごく自然のことです。 中性子も内部構造を持たない粒子だと考えます。 電子については、様々な状態を持つ映像だと考えます。 むしろ電子を存在だとすると、「電子とは何か?」という問いに答えることができない状態になります。  で、当サイトでは安定な陽子・中性子・電子を基本粒子と呼びます。不安定な素粒子は破片だと考えます。

 

安定な基本粒子や不安定な素粒子群、(物質的自然)は、いずれも映像であるとして、投影と映像の仕組みについて考えます。 弧理論の考え方は、ある科学者の言葉から来ています。E=mcについて、次のように述べています。

物質はエネルギーに転換するし、逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。

ここから、弧理論の考え方の基本図形

E軸上の実体が原因。物体は結果。

図6

を得ています。 ヲシテ文献を参考に考察を続けた結果、宇宙の構造(投影と映像の仕組み)は、

図7

のようであると分かってきました。(※2015年頃からのヲシテ文献に関する一連の記事を参照ください。上図の仕組みが分かったのは2016年11月頃です。)  一方で、物質的自然にかかる大きさのスケールは

表1

のようです。  2つの図を組み合わせて「投影と映像の仕組み」を作ることが出来ます。

図7の右図の部分を取り出すと

図8

になります。 図8を上下反転して図を作ります。

それが

図9

です。  横軸は投影面です。これは空間と考えてよいですし、物質的自然としてもよいと思います。図7の2つの図の横軸、M軸に同じです。 縦軸は、投影面より上がM軸(物質空間)にかかる大きさのスケールです。 単位はメートル(m)です。 投影面が大きさゼロになります。  投影面より下方が投影元です。 これをE軸上とします。

投影面より上方へは、基本粒子(陽子をD、中性子をE、電子をFとします。)・素粒子群があり原子・元素を経てあらゆる無機有機物、さらには細胞の大きさを経て10mあたりに人間の身長がきます。 ここで、前述の通り、基本粒子は内部構造を持ちません。素粒子群は基本粒子と同列の投影面に対して並列です。 現状、物理学においては素粒子である物質粒子(12種類のクオーク)の上に亜原子である陽子と中性子がきますけれども、図9では、並列になります。 基本粒子は、映画やTVでいえば、映像を構成する画素にあたります。

投影面より下方へは、E軸上の実体(A・B・CとG・H・Iの6種類)があります。ただし、研究当初より感じるのは、実体の状態には2種あるようで、実体6種×2で計12種類の実体があるようです。 その投影元は宇宙の中心である「」と「」です。 いうなれば宇宙の中心は2つあるということです。我々の持つ感覚が空間として認識できるのは、目が2つあるからでなくて空間のできる仕組みの元である投影元が2つあるから、空間が出来、その結果として空間を認識するに目が2つ必要になったと考えられます。

図9の右に示す3本の棒状の図について。左端から「五感でわかる範囲」、(1)意識を通す「記憶」、そして、右端の棒状図は(2)意識を通さない「記憶」です。  繰り返します。(1)意識を通すのは、「五感で分かる」のと、「記憶」の2つで、いずれも投影面より上方にあります。 (2)意識を通さない「記憶」は、投影面より下方にあります。  大事なのは(1)の記憶と(2)の記憶が基本粒子の領域「赤い括弧で括った範囲」で重なっているということです。この領域が「気付く」なのですが、後述します。  わかりやすい様に、以下(1)記憶と(2)記憶と表記します。

まず、五感で分かる範囲について。 我々の感覚器官(五感)あるいは意識の元となる脳は、細胞で出来ています。細胞は元素の組み合わせによります。元素は基本粒子の組み合わせです。五感の元は基本粒子の内、元素の中にある電子の振る舞いによります。(生理的な電子の流れ) つまり、五感でわかる範囲は、大きくは目視による天の川銀河くらいから小さいものでは100分の1㎜程度の凹凸や匂い分子の存在、あるいは熱の有無です。放射線が無味無臭であるのは五感の範囲外だからです。  (1)記憶は、明らかに五感でわかる範囲から来ています。宇宙の大規模構造は天体望遠鏡や観測衛星などによる拡大写真を元に想像するものであって、(多くは作られたCG)そのような映像があって初めて記憶となり得ます。つまり、(1)記憶は五感の範囲に重なると考えられます。

ここで、投影による映像である我々は、

図10

どのように動画であることを認識するでしょうか。 複数の静止画があり、その内の1枚が現在です。それ以外は過去です。我々は、過去から現在までの画像の記憶があって初めて動く世界に存在していることが分かります。では、その記憶は(1)記憶のみで可能かといえば、ムリがあります。何故ならば、基本粒子は離散的な振る舞いをし、かつ我々の感覚はスケールの大きな領域しか分からないからです。 (1)記憶の元は

図11

大脳皮質や海馬にあるとされます。(人間の脳と記憶) さらに大本は、上記の通り基本粒子です。(1)記憶は基本粒子付近で途切れています。  と云うことは、電子等の離散的な振る舞いにかかる動画としての認識は(1)記憶には無いということになります。五感でわかる範囲外ですから当然です。

では、基本粒子の離散的振る舞いを記憶して動画と認識する機構は何処にあるのでしょう。 それは(2)記憶だと考えられます。 投影元である宇宙の中心から(2)記憶は来ていると考えます。そして、基本粒子の離散的振る舞いに複数の静止画をして動画として認識できる記憶が備わっていると考えます。当然のこと(2)記憶は意識を通しません。 赤い括弧で示す重なりの部分においてのみ辛うじて「気(キ)付く」ことができます。

冒頭のまとめを再掲します。

  1. 第1の心の時制は現在である。意識を通す。
  2. 感情を表すシヰは現在である。
  3. 第2の心の時制は分からない。意識を通さない。
  4. 「知る」の時制は過去である。
  5. 「気付く」の時制は過去である。
  6. 「時間」の時制は過去である。
  7. 「お金」の時制は過去である。

上記を時制について整理します。

時制の「現在」にかかるもの → 第1の心 感情を表すシヰ

時制の「過去」にかかるもの →「知る」 「気付く」 「時間」 「お金」

過去とは記憶に基づくもですから、(1)記憶と(2)記憶に分けられます。

(1)記憶にかかる「過去」のもの → 「知る」 「気付く」 「時間」 「お金」

例で上げます。

  • メールで友人が○○することを知った
  • 冷蔵庫に△△があることに気付いた
  • TVで今××時だと知った。
  • スーパーで鶏肉がグラム○○円に値上がりしていた。

お金も時間も「知った」という過去形で表してよいことがわかります。これらはすべて(1)記憶によるものです。

(2)記憶にかかる「過去」のもの → 「知る」 「気(キ)付く」

例で上げます。

  • アイディアが閃いた。
  • 発明した。
  • 発見をした。
  • 名曲を創った。
  • 新しい知見に気(キ)付いた

(2)記憶は意識を通しません。図9の右に示す赤い括弧の範囲「気(キ)付く」こそが意識を通さない(2)記憶知識・情報の元)から意識を通す(1)記憶へとつながるものです。

 

基本粒子の離散的振る舞い記憶して、複数の静止画を動画と認識する機構はどのような仕組みかを考えます。 投影面付近での離散的振る舞いを図1~図4を参考に描きます。

例えば1個の電子の「現在」の状態を(ア)とします。

図12

そして、「過去」の状態を

図13

それぞれ古い順に(オ)(エ)(ウ)(イ)とします。 過去の状態(複数の静止画)が現在の状態(ア)と同一の1個の電子であると認識できるのが「動画」であるということになります。この状態の変化を認識できなければ、(ア)~(オ)の合計5個の電子が存在すると認識することになります。単一の電子が複数の静止画において同一かつ1個の電子であると認識できることがミソです。

この連続する静止画動画として認識できる記憶(2)記憶だろうと考えます。(※映画やTV画像における人の視覚にかかる残像現象と同じ様に考えると分かり易いです。) その上で、脳の大脳皮質か海馬、あるいは前頭葉か頭頂葉かは分かりませんけれども、しかるべき位置にて(2)記憶から(1)記憶へ意識的に意識することによって、新しい知見(気付く)を得ることができると考えます。

映像である我々が時(とき)を感じることができるのは、(1)記憶によるのですが、(2)記憶による静止画の投影と動画の仕組みが下支えしているだろうからだと考えます。 そして、冒頭にご紹介した岡潔による「第2の心」、「意識を通さない」「私というものを入れることができない心」こそが、投影元から来ているのだろうと推測します。

 

補足: 時間は運動から作ります。では、運動はどこまでも分かるかというと、そうではありません。ある科学者の言葉によれば、

図14

投影角θが90度以外が、M軸上では運動として認識されると云います。 投影角が浅いほど物質が速く運動しているということです。 ところが、運動が増すにつれて物質の質量は、M軸に対して次元を失います。 観測者から観て質量が測定できなくなるということを意味します。運動3においては、質量を測定により決定することは不可能となります。 平たく云えば、物質の運動という意味において、時間を適用できなくなるということです。運動とは質量を伴わねば分かる訳ないからです。運動は時間から作ったのですから当然です。

表1 再掲

つまり、表1の両端では観測者(人間)に対して光の速さで運動しており、時間を適用できないということです。(※例え数学を用いて超精密に計算して出した結果と、実験で得た結果が一致しても。)

では何故、素粒子物理学の理論と実験が一致する素粒子が発見されるのか。 どうも図9に示すE軸上の実体として示した「ABCとGHIの6種類」は、陽子・中性子の内部構造として理論化されたクオークの分類に等しいからではないかと感じます。 E軸上の実体は、M軸上(投影面より上)には決して出てきません。 素粒子物理学者たちは、E軸上の実体を「かげ」のように追い求め、クオークに行き着いたのではと考えます。ですから、彼らの理論に従った「相当する素粒子」が発見されても不思議ではないと考えます。でも取り出せません。クオークは、「閉じ込め」ではなくて存在ではないからです。

 

岡潔は唯物主義者のことを「五感で分からないものは無いとしか思えない」と云いました。当サイトでは唯物主義から一歩出なければ次はないと考えて進めています。しかしながら、何でもありではありません。 当サイトは、何か我々が持つ感覚では分からないものから、宇宙自然が出来ていると感じる人々を対象としています。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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