この記事は、これまでの研究のまとめとして「ヒトとは何か?」を書いています。随時、書き足し推敲しますので、追記、あるいは削除することがあります。
経験を積む存在
ヒトとは、「ヒ フ ミ ヨ ヰ ム ナナ ヤ ココ ト」と数える「ヒト」であって、経験を積んで成長する存在です。ヒトはチェスの駒の様に使い捨てではなく、将棋の様に何度も経験を積むことが出来る存在です。
このようにヒトは、漢字で人あるいは人間と書くとまったく意味が通らないとわかります。
物と事
ヒトが(わかる)のは、物と事です。物事を「ウ」と言い、これは後述します。
まず、ヒトは物が”わかる”という働きがあります。
釈迦は、この働きをBuddha(仏陀)と言いましたし、シナの善導は「覚」と名付けました。また、数学者の岡潔は、これを「情」と言いました。あるいは「気」とも言いますし、ヲシテ文献では「ナサケヱダ」や「キ」とも言います。ことに、ヲシテにおいては、ナサケヱダの器として「タマ」と言います。
次いで、事が「わかる」という働きがあります。ヲシテ文献では「アワレヱダ」と言います。あるいは、「シヰ」と言います。シヰとは欲しい欲しいのシヰで、強いるのシヰです。シヰとは生命維持の欲求を言います。
事とは出来事、動き、運動です。時間は運動からつくりますから、速度、加速度は「事」です。波は動きですから「事」です。
ex.例えば、空気は物ですし、音は空気を伝わる波ですから、音は事、出来事です。光も電磁波ですから事です。
これら2つの働き(タマ+シヰ)を心と言います。2つの心と肉体を持った存在がヒトです。漢字で魂と書くとまったく意味が通りません。
タマシヰと(ウ)
- ヒト=タマ + シヰ +ウ(肉体)
(ナサケヱダ)(アワレヱダ)
物が”わかる” 事が「わかる」
ここで、ウは物と事を示します。
- ウ は渦のウで、(位置と大きさがある物(物質)、かつ動きがある事、出来事)です。渦は物と事を兼ねた存在です。

gif 渦には位置と大きさがある物、かつ動きがある存在
ヒトとは、タマシヰとウ(物質)で出来た肉体を持つ存在です。
- 物がわかり、事がわかる。そして、欲求があり肉体を持った存在。それがヒトです。
2つの[わかる]
ここで、ヒトが持つわかるという働きをまとめます。
- (わかる)=物が”わかる” + 事が「わかる」
となり、(わかる)とは理解、あるいは物の理と言います。そして、(わかる)の語源は「わける」です。
- 何かをわけることによって、(わかる)とします。理解には、幾つかの段階ある訳です。
しかしながら、実際には、ヒトは、物事を[わける]ことによってわかっているのではありません。この事実をほぼ100%の人々は知りません。
言語の本質
言語は有限な要素によるネットワークであって、循環です。これには数学を含みます。そして、必ず閉じています。必ずです。
数学で用いられる記号は、数百以上、あるいは二千種類以上あるとされますが、それでも有限です。日本語は五十音韻です。濁音などもありますが限られています。漢字は常用漢字2136文字です。JIS第1水準は2965文字、第2水準は3390文字ありますが有限です。
その他の言語も同じです。プログラミング言語も同じ要素の繰り返しです。例外は一切ありません。
数学を含む言語は循環で、必ず閉じています。それが、百科事典であっても、国立国会図書館であっても、インターネット網であってもです。
要素の単位
これら言語で言い表される知識、情報、記録、記憶を構成するネットワークの単位は、3種類しかありません。
- 往復(振動)
- 循環(回転)
- 再帰
1.と2.を図にしますと次です。結節点を○印にしました。

図1 左は往復、右は循環の要素
2種類の要素を組み合わせたのがネットワークです。脳やAIを示す図にもネットワークが描かれています。

図2 脳科学とAIより
ご覧の通り脳もAIも必ず閉じており、その要素は図1に示す2種類です。
それで、再帰はとは何かです。
- 再帰は自身を呼び出す循環です。
例えば、階乗(!)です。
- 5!=5×4!
=5×4×3!
=5×4×3×2!
=5×4×3×2×1
それで、0!=1と定義(意味づけ)します。nの階乗はというと
- n!=n×(n-1)!
と右辺において、自身を呼び出しています。これが再帰です。
再帰の値が決まるのは、0!を1と定義したからですけれども、これは要素1.に帰納します。
- 0は1と意味づけして再帰の値を決めることが出来ます。
つまり、0と1の往復です。
要素はわからない
図1に示した要素の単位1.2.の例を考えます。
- 往復 ・・・・ コインの裏表
- 循環 ・・・・ ジャンケン
コインについて、
- 裏は表がなければ、わからない
- 表は裏がなければ、わからない
という循環です。ですから、限りなく往復しますからわかりません。あるいは振動です。
ジャンケンについて。グー・チョキ・パーは各々が決まらない循環であって、わかりません。
数学者の岡潔は、要素1.について、次の様に述べています。
- 自然数の1は決してわからない。
「1」から2、3、4、5、6、7、8、9、10、11・・・・という数において、1は決してわかりません。例えば、2進数1桁を考えます。
- 1は0がなければ、わからない。
- 0は1がなければ、わからない。
0と1は、コインの裏表の例と同じで、要素の単位1.に同じです。
同じく要素の単位2.における循環も同じです。
まとめます。
言語は有限な要素によるネットワークであって、その要素は決してわかりません。要素の単位に意味づけして初めてネットワーク全体が意味を持ち得ます。
- ヒトは(有限な要素の繰り返しに過ぎない)言語によって物事がわかっているのではない。
ということです。コインの裏と表に意味はありませんし、価値もありません。最初に表を勝ちか負けと決めて(意味付け)したから、価値があるのです。これは要素の単位2.も同じです。 グーはチョキに勝つ、チョキはパーに勝つと決めて(意味づけ)したから勝負に意味と価値があるのです。
量れない仏陀と如来
古代インド人は、数学が得意でした。何でも(わけて)量ろうとしました。その結果が、仏教にある如来二種回向です。その二種とは、要素の単位である1.往復と2.循環です。
彼らは、要素の単位を量れないと言い表しました。これをサンスクリット語で「タターガタ(tathāgata)」(漢字での意訳:如来)と言います。
- a mita tathāgata
- 阿 弥陀 如来
- 否定 量る 如来
aは否定です。mitaは量るですから、漢字に音訳、意訳して阿弥陀如来といいます。この如来が二種あるということです。
同じく、先述のBuddha(仏陀):物が”わかる”という働きも決して量れません。仏陀という働きが「何時から、何時まで、何処から、何故ある」のか決してわからない(量れない)としました。ですから上記と同じく。
- a mita Buddha
- 阿弥陀仏
となります。
都合、仏教の仏陀と如来は何れも「量れない」としながら、その内容はまったく異なる訳です。
信仰の対象
同じ「量れない仏陀(覚、情、気、キ)」と「量れない如来三種」であっても、その様相はまったく異なります。
真に信仰の対象となるのは、仏陀(覚、情、気、キ)です。如来は単なる物事のわかり方、関係性を示すに過ぎません。如来は信仰の対象ではありません。
但し、種々の資料を基に解析した結果(働きとわかり方)を解説しています。宗教としての信仰を否定するものではありません。
何が(わかる)のか
仮にヒトの心の本体である仏陀(覚、情、気、キ)を自己とします。自己が原因となって(わかるの)は、自己以外のすべてです。これを自然と言います。
- 自己 対 自然
対になるのは、ヒトの身体、父母、兄弟、親戚、友人、社会や自己を取り巻く環境のすべてです。ここから、自然崇拝とでもいう信仰が出てきます。社会学者の小室直樹は次の様に述べています。
- 日本人は、神様仏様より人間の都合を優先する。
また、田中英道も同様のことを述べています。
- (日本人のそれは)自然道と言う。
何故、八百万の神というかの本質は、「自然は自己と対だから」です。
管理人が思う(感想)に、
- 自然やご先祖を敬うのは、ひいては自己を大切にすることに等しい。
と感じるからです。
その点、チェスの様に駒を使い捨てにするような神(GOD)は、冷酷に感じます。
他力
ここまでで、自己「仏陀(覚、情、気、キ)」の存在と、そのわかり方(如来三種回向)が整いました。しかも、知識、情報、記録、記憶には「循環:ネットワーク」という本質的な限界があります。
では、閉じた知識から発見や創造はどのようにできるのでしょうか。これを他力と言います。あるいは創発とも言います。他力とは「気づかされる」です。
ネットワーク内になかった何かに気づく仮定について、岡潔は次の様に述べています。
- 情的にわかるものを知的に言い表すことによって、文化は出来てくる。
発見や創造は、自力では如何ともしがたいものです。何せ知識ネットワーク内にはないからです。これには実践しかありません。
(わかる)の順番
ヒトが持つ物事への理解は、如来というわかり方です。このわかり方の順番を示します。
- 物が”わかる”
- 事(動き)が「わかる」
- 物と事が揃って、言葉で言える
- 物事に意味づけ出来る
- 物事の価値が(わかる)
再掲します。
- (わかる:理解)=情的に物が”わかる”+事が「わかる」動きが「わかる」
- 自己と対になるのは自然そのもの
しかし、物と事が揃わない何かは決してわかりません。
非常に奇妙なのですが、実は上に挙げた順序でわかっている人間はほぼいません。何故ならば、欲求(シヰ)が故に、5.の価値が先にあるからです。
- まず、その人自身の欲望による価値観があります。
- 価値観に合う物事へ意味づけします。
- それらを言葉によって論理付けします。
つまり、多くの人々にとって、主義主張や思想は、後付けなのです。最初にこうあれば、他人より有利だとか、得だとかがあって、それらに合致する政党や政治家を選択する訳です。
人は立場によって、言葉の意味も価値も反転します。(これが言葉の持つ特性です。)階層がより深い抽象であればあるほど、言葉の意味も価値も希薄になります。深過ぎる抽象は、言葉はあっても意味がわかりません。また、それを優秀だと勘違いしている人が大勢います。
何故このような順序になるかというと、ヒトは有限な要素によるネットワーク循環に過ぎない言語を都合の良い様に使っているからです。
- 善は悪の如し、悪は善の如し。
- 立場によって、主張を変えます。
しかも、彼らは高学歴故に、深い抽象の内に真意を隠しています。言葉を弄びます。詭弁を弄します。レトリックを入れます。言葉遊びをします。平気で嘘をつきます。
- 言葉は循環だと気づくと、次第に過度な自己主張は恥じる様になります。
時と中今
時についてです。時には現在、過去、未来があります。古神道の言葉に「中今」というのがあります。
- 中今とは過去と未来の間を言います。
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図3 中今
そして、発見や創造、つまり他力は中今からやってきます。
仏陀(覚、情、気、キ)は中今にのみあります。
- 運動は中今に届きません。
- 運動から作る時間は中今に届きません。
- だから時報は過ぎてからしか(わかり)ません。
- 言語は中今に届きません。
- 知識、情報、記録、記憶は中今に届きません。
要は心の本体である仏陀(覚、情、気、キ)からしか創発、発見や創造は起きません。
自然科学の由来
仏教に須弥山があります。

図3 須弥山
リンク先の図をよく見てください。海があり、川があり、地面があり、天があります。その広さ、高さ、長さ、大きさ、そして時の長さを表しています。これを言うなれば、時間空間です。これはそのまま、自然科学のひな形とでもいうものです。
須弥山の天辺より上の左をご覧ください。「寿量人間二百年一書?夜而二千歳」とあります。その更に上方には「劫」とあります。未来永劫の「劫」です。サンスクリット語の「カルパ(kalpa)」の音写で、無限に近い歳月を言います。
それでは、最も短い時間はと言うと、刹那です。「劫(こう)」が無限の長さを表すのに対し、刹那は一瞬の極限を表す対義語のような関係にあります。
- 指を1回弾く間に「65刹那」
人間が指をパチンと1回弾く(弾指:だんし)時間の間に、65の刹那が流れるとされています。
ここで、数学者の岡潔は、自然科学について、次の様に述べています。
- (自然科学者の)時間空間は簡単な模型であって、自然そのものではない。
岡潔によれば、(自然科学者は)時間とは何か、空間とは何か、何も考えていない。自然科学者は、自然はわかると思っている。わかると言うのではない。(わかると断言したのではない。)だから、何も考えていない。自分が仮定しているのにさえ気づいていない。それについて、考えることが出来ないというのは原子人的無知だと述べています。
情的に物が”わかる”というのが起点となって、理解へ到達します。そして、自己と対となるのが「自然」なのですが、それでも物と事が揃わない何かわかりません。
自然科学の「自然」を「時間空間」と言った発想から
- 自己と対となるのは自然そのもの >> 自然科学の時間空間は模型
だと言うことを明確にしておきます。
自然科学の得たもの
ことに物理学者たちが得たものは、次です。
- 物理学では、物とは何かはわからかなかった。物と物との関係性(事の関係性)はわかった。
物の関係性、事が(わかった)というのは、次です。

https://www-jlc.kek.jp/ilcphys/hep_intro/brane
図4 超弦理論による2種類のひも
この2種類の超ひもは、そのまま如来による2種類の形(往復と循環)です。
これを如来のわかり方と言います。再帰を含めると如来三種回向と言います。これは「ネットワークの要素」そのままです。現在までの所、物理学者たちはニュートン以来の探求によって、得た結論(事の関係性)が、二千数百年前において既に発見されていたことに気づいていません。
付け加えると、このわかり方は抽象です。何故ならば、数学を含む言語有限な要素によるネットワークであって、循環だからです。循環の深さ(階層と言います。)に限度はありません。
- 鉛筆、ボールペン、サインペン、万年筆は物であり、量があります。
- それらの筆記用具、文房具と言う語は、事の質であって、量ではありませんし、抽象です。
- 物の量と関係が薄い事を抽象と言います。
図4にある2種類の超ひもは、極限の抽象であって、事のわかり方(如来)に過ぎません。(物の量と思い込まされている)仕組みはかなり巧妙です。後で、少し歴史を遡ります。
数学者の岡潔が言った言葉と物理学者たちが得た結論とを比較します。
- 自然数の1は決してわからない。
- 時間空間は簡単な模型であって、自然そのものではない。
- (自然科学者の)時間空間は、全てを覆っているが、それより外へは一切出ていない。(管理人:これを外のない内と言います。)
- 空間は量的質的にありません。
- 情的にわかる(仏陀:物が”わかる”)というのがなければ、一切は存在しない。
- 情的に(物が)”わかる”というのがあるから、形式があり得た。言葉があり得た。
最後の行にある通り、言語は形式です。形式は物事の関係性を記述します。逆に言えば、岡潔は、ヒトが(わかる)と言う働き(心)を持っていないならば、自然の一切は存在しないと言う事を伝えている訳です。
実はヒトの脳の仕組みを真似てコンピューター内に作られたのがAIです。これを処理系と呼んでいます。
脳もAIも形式に過ぎない言語を処理しているに過ぎません。ヒトとの違いはここにあります。入力と出力の関係が脳とAIが同じならば、ヒトとの違いは何かということです。この点に関して、殆どの人々は知りません。重ねて記します。
- ヒトは物事を言葉でわかっているのではありません。
- 言語は有限な要素によるネットワークであって、循環だからです。
- 物と物との関係性、物と事の関係性、事と事の関係は(わかり)ます。
- しかし、処理系において、物は”わかりません”。
この点において、図1に示した結節点(物)はわかりません。この物(結節点)をブラックボックスとしています。
- 物は、位置と大きさ等はあるが内部構造はなくて、外界の状況に応じて自らの状態を変化させるブラックボックスです。
- 物と動きを兼ねた渦に内部構造はありません。
この辺りの事情はかなり込み入っていますし、歴史も関係します。
ヒントとして素粒子は、粒子とされていますが、波(孤立波:ソリトン)です。
ex.例として、空気は物です。音は空気を伝わる波ですから事です。
素粒子群(孤立波:ソリトン)を観測して質量を求めるのは奇妙です。音をマイクで拾って音の質量を計算するに似ています。

写真1 リコーダーの音の質量を計算する者はいない
空気と音は無関係です。
- 観測される素粒子群は、空間に帰するし空間より生じるとされていますが、素粒子と空間は無関係です。
- 空間は量的質的にありません。
例として挙げた(空気と音)並びに(空間と素粒子群)の関係とを比較してください。結局の所、自然科学者が考えた「自然とは時間空間だ」と言う仮定において、言語が循環だからこそ、その前提にからの必然として、
- 物とは何かわからなかった。
- しかし、関係性はわかった。
- でも「時間空間とは何か」と言う疑問に戻ってしまう。
- しかも、そのわかり方は3つしかない。(如来三種回向)
- 自然科学に心はない。
これが自然科学者の置かれた現在の状態です。
自然科学は仏教の内にある
- 仏教(仏陀と如来) > 須弥山をひな形とする自然科学の前提(時間空間)
- 自然科学の得た結論は、如来三種回向という自然のわかり方
- 自然科学に心(仏陀)はない
ですから、自然科学は仏教の内にとどまっています。
知識の限界
数学を含む言語は、有限な要素によるネットワークであって循環です。知識は言語によりますから、知識は閉じています。どんなに深い抽象であっても必ず閉じています。しかも抽象は物の量と関係が薄いですから、究極のところ「言葉、論理、主張はあっても意味もわからないし、価値もない言葉遊び」に至ります。
仏教や聖書の経典や聖典がこれほどに複雑で難解であっても、さほど意味と価値はないです。予め3つのわかり方しかないと知っているからです。
一方の意識には広がりがあります。空間を把握できます。どこそこの施設の何々の様子を想像できます。
そして、意識は知識の上に乗っています。知識は閉じているにも関わらず、意識は知識を超えて広がりがあります。実に奇妙です。

写真2
例えて言えば、パンの上に大きなスライスチーズを乗せた様子に似ています。パン(言語)は閉じているのにチーズはパンを大きく超えて広がっています。
数学者の岡潔は、「意識を通す」あるいは「意識を通さない」と表現しています。
つまり、自然科学の時間空間について、「意識は全てを覆っている」が「それより外へは一切出ていない」と言います。その原因は、言語による知識の限界があるからと解釈できます。
これは時間空間というモデル自体の限界であるのみならず、言語自体が持つ限界です。
繰り返しになりますが、自然科学の時間空間は、「時間とは何か。空間とは何か。」という疑問に必ず戻ります。管理人Φがやっている弧理論もまた同じです。
倒錯と錯乱
ヒトは、物事を言葉でわかっているのではありません。言葉は物事の関係性に意味づけ出来るに過ぎません。人々の物事への価値観は、幾らでも反転します。同じ言葉でも立場によって変わります。言葉は循環だからです。試しにお持ちの辞書を調べてください。必ず同じ言葉へ戻ってきます。
- まず、欲望があって → 価値観 → 主義・主張に合った理論・理屈を選択
- 限りなく細分化(抽象化:言葉遊び) → 意味不明(倒錯)
- ex.俺は女だ(LGBTQの果て)
この過程を殆どの人々は知りません。ただ、
- 物事をわけることによって、わかると思っている。
に過ぎません。この意味と価値が幾らでも反転する世界において、行き着く先は、
- 深い抽象の果てに、意味もわからない価値もわからない錯乱の世界です。世界の多くの人々は、心を病んでいます。知的であるかどうかは関係ないようです。
岡潔は次の様に述べています。
- 世界は思想の洪水だ。このままでは、世界は滅んでしまう。
岡潔によれば、自然科学者は、自然はこうだと決めてかかって、これを科学したものの寄せ集めだといいます。このようなもの(自然科学)は思想の寄せ集めであって、学問ですらないと述べています。
感覚は直ぐに麻痺します。より大きな刺激が欲しくて薬物に手を出したり、小児性愛、児童誘拐などが組織的に行われてきたことは事実です。
- 恩師の言葉で思い出します。「考え方が不健康。」
大きさのスケールと抽象の深さ。
重力統合により至るウロボロスの蛇。


