常識 というブレーキ

「 常識 とは」で検索してみると、ブリタニカ国際大百科事典などからのサイトがみつかります。最上部に出てくる 常識 では、「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」とあります。 次には『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』というのもあります。ここでアインシュタインが出てくるのは、ちょっと胡散臭いですが。 常識には、合理的なものもありますでしょうけれども、山本七平の空気(の研究)といった、その時々の社会の雰囲気といったものもあるでしょう。

いつも引用するある科学者は次のように述べています。少し長いです。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くへまで進みすぎている。その結果、遠い道のりを後戻りしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと易しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのような物だ。自分では上方へ動いている事が分かっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。その為に幹を離れている事に気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。一時は万事上手く行く。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取る事も出来る。だがその枝が急に無数の小枝に分かれて色々な方向に葉が散らばっている為に本人はまごつき始める。同様に、知識の探求者は常に確固たる物であった”基本的法則”が今や分かれ始めて反対の方向にちらばり始めている事に気づく。すると科学者は心によって受け入れられる知識の限界に近づいている事や、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的な物になるという結論に達する。

下線は管理人による。 ある科学者は、人間を比喩として「木に登るアリ」に例えました。低い位置にある一つの枝を幹の全体だと勘違いして登っているようなものだといいます。

数学者の岡潔は、人の心には2つあると云いました。一つは「私」というものが入らねば金輪際働かない心。これを第1の心と云います。もう一つは決して私が入らない心。これを第二の心としました。 そして、人の心の働きは「情、知、意」の順で働くとしました。 まず、情じょうが働きます。情とは「何となくわかる」「何となくその趣おもむきがわかる」ということです。 次に「知」が働きます。そして「意」に至る訳です。 「知」の段階において「言葉」で表せるものとなっているでしょう。そして「識」する段階においては、意欲、欲望となります。これが縄文哲学で云うところの「シヰ」です。(欲しいしいのシヰであり、タマシヰのシヰです。恐らく、縄文哲学のタマが第2の心に相当します。ただ、岡潔のものより、縄文哲学の方がなお詳しいです。)

で、「情→知」のところで、 常識 が顔を出します。すると「意」に至る前にこれを拒絶します。自身は「識」することなく、得られるはずの知識を逃すのです。 この過程がある科学者が云う「既成概念という鋳型」です。 「そんなはずはない」というやつです。


ところで、ある科学者の「物理的な法則は究極的には全く統計的な物になるという結論に達する」という点について。

量子力学と弧理論の考え方で大きく異なる点は「」についての解釈です。 量子力学においては、電子は粒子であり、でもあります。その(測定による)位置は確率的に決まり、原子の回りに電子雲として存在していると解釈しています。

写真1 出典:失念

これを確率密度といい数学的には波動関数として扱われます。

写真2 出典:物理学の魔法の鏡より

 

弧理論での「波」についての考え方について。  ある科学者はエネルギー[ML2T-2]について次のように述べています。これも長いです。

あなたがたの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーの簡単な同一性をまだ充分に把握していない点にあります。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授は、ずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的にあらわした数式を発表しました。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達しています。つまり物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなると言っていますが、実際は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎないのです。

二つの次元をもつ幾何的な平面を考えてごらんなさい。この面があなたの視線に対して直角をなすとき、あなたはそれを平面と感じます。これはその実体の物質面をあらわします。つぎにあなたがその面を90度ほど回転させると、その面はあなたの視界から消えて一次元のみとなります。これはその実体のエネルギー面です。

図1 注:管理人による。

あなたはその面を取り替えたわけではない。ただ観点を変えただけです。技術的に言えば関係位置を変えたのです。一定の物体に含まれていると思われるエネルギー量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれぐらい回転したかにかかっているんです。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、全く異なる量のエネルギーを見るでしょう。

ある科学者の云う「物質とエネルギーの同一性を量的にあらわした数式」とは特殊相対論にあるE=mcのことです。 そして図1を二次元平面図にしたのが

E軸上の実体が原因。物体は結果。

図2

に示す弧理論の基本形です。 宇宙は「(E軸上の実体が)投影によって(M軸上に)現れる映像」だということの根拠になります。※   観測者は見る面を変えません。代わりに投影角が変化することによって異なる運動を見ることになります。(図3を参照ください。) ここで、E軸上の実体が持つエネルギーを真のエネルギーとし、物理学上のエネルギー[ML2T-2]を運動として区別しています。(注:別の理由で時間[T]を含む表記はできません。)

※ 岡潔が山崎弁栄上人を引用して「自然は心があるために映写されている映像」だとしたことと同一です。講演録「西洋の唯物主義」等を参照ください。

物質が運動にあるときを考えます。

図3

投影角が浅くなるにつれて、質量は観測しにくくなります。例えば電子は、電子波として観測されますでしょう。そして、投影角がゼロの時が電磁波だろうと考えます。このとき電子は光速度にあり、質量は観測されません。これが弧理論における「波」の解釈です。 アインシュタインは「併走する光は、光に見える」と考えました。 弧理論においては、「光と併走すると、光は電子に見える」はずです。

ある科学者は「物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎない」といいました。一つの実体はM軸上にいろいろな物性を示すということです。

  • 電子は粒子である
  • 電子は波である
  • 電子は光である
  • 運動の一形態は光である

これ以外にもあることでしょう。

現在、陽子・中性子・電子の各々が持つ複数の発散トーラスの組み合わせによって「原子が真のエネルギー値」になることの仕組みを考案中です。トム・ベアデンが(手紙の中で)指摘したように、原子の中において真のエネルギー流は二つの流れ(+)(-)に分かれて互いに打ち消し合う構造をしています。それはトム・ベアデンの云うとおりならば、「比較的弱いが発散性であるポインティング・エネルギー流成分よりも1兆倍以上も大きい」はずです。外部には一切出ません。すべて電子が原子核の周囲に留まるために使われます。 このことは19世紀末に物理学者たちが「なぜ電子はエネルギーを失って原子核に落ち込んでしまわないのか」という疑問を「電子は粒子であり波である」として回避したことに対する弧理論による解答です。 注:発散トーラスは、極めて到達距離の短い非常に強い力を持った「距離の7乗に逆比例する」力場です。(今のところ仮説。)

図4の右

単極であり、発散するのに渦有りです。4種類あります。

図5

3DCGにしたのが次図です。

 

ある科学者の指摘です。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にあります。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしています。これは心中で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなります

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのです。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになるのです。てっとりばやく言いますと、あなたがたの科学が進歩し続けるために必要なのは、あなたがたがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることです。

ここまでの考察によって、管理人には、フリーエネルギーなる仕組みが可能であるということはほぼ確定です。あとは(中性子を介して)陽子電子の間で行われている「(+)と(-)の真のエネルギー流の相殺」のバランスを崩せばよいということです。少し崩すだけで莫大な運動が得られるはずです。 同時に福島第1原発の放射能を無効にすることも視野に入ってきます。その理論的根拠は、スカラー波などと無関係です。トム・ベアデンがミスリードしていると感じるのはこの点です。

 


閑話休題。 過去何度か「自然科学は統合失調」だと書きました。

図6 出典:こちら

それはあたかも「群盲象を評す」の状態です。各々は(理論も実験も)正しいけれど、どれも正解ではないのです。 何故なら「映像」だからです。

個々の常識を以て、ブレーキがかかるのは、以上の理由からだと考えられます。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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常識 というブレーキ への2件のフィードバック

  1. 佐々木 のコメント:

    大橋正雄だったかなあ。足立育郎もそういう思考形式をしていた。
    ボーアモデルで電子が運動するから電磁波放射して核に落ちるという話。これは電子(あるいは原子核)の定義の曖昧さ故に出てくる話ですよね。
    原子の何か挙動を示すものとしての電子が、それのみが動くから電磁波を放つというのは基の発想を壊しているように思う。(これは金澤氏の指摘と同じ)
    粒子性と波動性が観測され、その粒子の運動と同時に更なる波動が観測できるとしても、それは副産物とするべきだ。クッキーを粉々にしても、粉はクッキーの本質ではない。食える状態に意味がある。
    ttp://www.at-penguin.com/jp/?p=1458
    確か学生時に読んで、原子モデルはこちらの方がわかりやすいと思った記憶があります。

    • Φ のコメント:

      >基の発想を壊している
      そうかもしれません。ただラザフォード等の実験により原子の構造がわかるし、他によって粒子かつ波であることは、実験事実として受け入れざるを得ません。量子力学は観測結果をそのままを受け入れたものでした。弧理論はそんなこんなを含めて別の次元軸からの投影による映像だと解釈するとすっきりするというものです。そもそもエネルギーの定義が異なってきます。これは致命的です。投影という仕組み(1,3,5といった整数回しかあり得ません。)からして整数を元に現象が離散的であることの理由がたちます。だから宇宙の某かが素数と関係するという解釈も魅力的です。山崎弁栄上人、岡潔ほかアランの指摘も皆、映像かもという方向へ向かっているのですから、それなりに説得力あると考えます。
      最近某所である人が衝撃的な経験にコメントしていて「頭ではわかっていても、心がついていかない」というのがありました。アランは量子力学の解釈について「電子は確率波をもつ粒子だと正当化させようとしている。これは心で描けない。だから抽象的な数学に頼らざるを得ない」と述べました。実験事実はわかっていても心がついていかないのです。現象が映像だとすると心との整合できる利点は大きいと考えます。
      最近、弧理論による磁気モデルを考案し、実験に落とせそうです。確かめるには少しかかります。

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