岡潔1「数は量のかげ」 2「(物質は)五感でわかるものでなければならない」 ならば自然科学の限界は明らか

本年7月9日の記事にて数学者岡潔「数は量のかげ」・・・本当は天地が逆だろう 他2題を記しました。その後にわかったことを記します。

(1) どうも岡潔の言葉「数は量のかげ」について、いろいろ解釈はあるようですけれど、新式算術講義の文中で引用されている部分を抜粋します。

量の概念を完全に放棄するのではなく,高木がそうしたように「数」の概念の背景に「量]の概念を配置するのは,よいアイデアである.晩年の岡潔はしばしば

「数は量のかげ」

と語り,色紙も遺しているが,高木の語る「数の理論」の実体を言い当てた一語であり,根柢には高木の影がくっきりと射し込んでいるように思う.

文中の高木とは数学者の高木貞治のことです。 文中の「数」の概念の背景に「量」の概念を配置するというのは、

「量」があって「数」の概念が成り立つ

と理解してよいと思います。 例えば

100211_135343

ある

写真1

について。

岡潔は、人は「情 知 意」の順に働くと言いました。  人はまず、じょうがあります。情とは、何となく趣おもむきがわかるということです。松は松なりに竹は竹なりの趣がわかります。そこまでは、意識を通さず、言葉で言えません。誰かに教わるものでもありません。  次に「」に至ります。ここで「ミカン」という言葉・概念・思考に至ります。  そして、「」に至ります。 こうして「ミカン」を「食べられる」「美味しい」「もっと食べたい」という意識・意欲あるいは欲望という形になります。

ここで写真1について、ミカンの()の多寡が問題となります。「」を測る必要において「」が出てくることになります。 では、上記の新式算術講義にあるように、「量の概念を消失して」「数」は存在しうるかというと、そうとはいえないと思います。 「数」を思考するのは人です。 頭脳は、最終的に生理学的な電気信号です。情報を蓄えるには僅かばかりの(時間を含む)エネルギーが必要です。 つまり、人の頭で「数」について思考するにしても「量」が必ず伴うということです。

 

(2) 岡潔は講演録、五感でわかるものにおいて、次のように述べています。

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。

 

で、(1)数は必ず量を伴う必要があります。(人の思考でさえも) (2)物理(量)は、人に備わった五感でわかるものでなければならないのですから、

五感でわかるスケール図1

の赤い括弧の内側が自然科学の対象範囲であるといえます。その基本は原子(陽子中性子電子)や分子です。

自然科学は概ね時間をパラメーターにした数学を用いています。時間は存在しませんから、図1の両端は「五感から消失」するとともに時間を用いた「数」による計算のみ存在することになります。具体的には宇宙物理学者と量子物理学者の頭脳にあるということになります。

 

何らかの素粒子理論のとおり発見されたとします。そのような素粒子は存在して例えば

図2 ヒッグス粒子のシグナルより

のようなグラフを描くでしょう。 しかし、信号は1020倍ほども増幅されています。到底五感でわかるものではありません。某かの素粒子等を大量に浴びて五感でわかるのは、恐らく火傷です。ILCを知るを参照ください。

確かに某かの素粒子存在するでしょう。理論も間違いないでしょう。  しかし五感でわかるものではありません。  それぞれの間に乖離があります。 時間が問題です。時間は存在しません 恐らく理論と素粒子の間には関係は無いと思われます。その間を時間が取り持っているだろうと考えます。 五感でわかるものでなければ物理()とはいえないからです。 思考も肉体の機能があってこそです。 何十年か前に唯物主義を捨て去ったことの行き着いた結果です。

ついでながら、図1の右端での単位は、(光年)です。左端の単位は(GeV)であって、正確には(GeV/C)ですから、いずれも時間をモノサシに使っています。 図1の両端において、(運動/時間)の比率は変化しているだろうと思います。

やはり、「数」は「量」を離れて存在し得ないと考えます。よって、自然科学の限界は明らかです。 それにしても、物質に質量を与える理論と五感でわかる物質の重さ(質量)とグラフで見る素粒子の存在との間には、どのような関係があるのでしょうか?管理人には理解できません。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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岡潔1「数は量のかげ」 2「(物質は)五感でわかるものでなければならない」 ならば自然科学の限界は明らか への11件のフィードバック

  1. 1729akayama のコメント:

    「数は量のかげ」は、岡潔の言葉の
      ≪数というものがあるから、数学の言葉というものがつくれるわけですね。≫
    と高木貞治の言葉の
      ≪…静を愛するもの、果たして函数を許容し得るや否や?≫ 
    に思考という時間を内包させると
      『離散的有理数の組み合わせの多変数創発関数論 命題Ⅱ』 
    により認知できる。

    「自己組織化と進化の論理 宇宙を貫く複雑系の法則」スチュアート・カウフマン著米沢富美子監訳に
      ≪もしかしたら究極理論は、・・・四次元は量子化された時空の中の幾何学的な  泡の中に埋め込まれている。…≫

    「絶対数学の世界 リーマン予想・ラングランズ予想・佐藤予想」 黒川信重著に
       ≪―[すべてのものは零点に吸い込まれて再生する]―が世の中に普及するこ   とを祈っています。≫
    の文脈に朧げに浸れるような気分になる。

    「数は量のかげ」は、五感であるニッチ(生態的地位)の記述道具(言葉)として数学(理性)を生み出したのだ。

    • Φ のコメント:

      自己とは何かが抜けています。
      >究極理論は、・・・四次元は量子化された時空の中の幾何学的な  泡の中に埋め込まれている。
      時空という考えから抜けねば、始まりません。「在る」のは、質量・位置を持つ物質とその運動(それと運動の一形態である”波”)だけです。それも人の持つ感覚でわかる範囲に限られます。このような仕組みがどのようにできているかを知りたいのです。
      岡潔が「緊張と集中」を要する数学から「弛緩と関心」を要する「情」の探求に転換したのか、きっかけは何だったのかとても興味があります。やはり自己とは何かと考えたようにも思います。

  2. 佐々木 のコメント:

    >数は量のかげ
    もしかして科学者は「計算と数式展開が得意だけれど、数とは何かを理解していない」のか?
    だとしたら致命的ですね。
    私が流行りの機械学習やAI落とし穴があると感じるのはこれかもしれません。

    調べてみると、岡潔は遠山啓と同世代でした。銀林浩はそのちょっと後。
    小学生時、親から教科書以外で、数の概念をたたき込まれた記憶があります。
    遠山・銀林の水道方式という、タイルを使って数・量と幾何学パターンを理解していく方法でした。
    数の概念がわからないから、数学拒絶する人が多いのですね。
    で、機械的な計算だけに頼ることになり、残るのは演算子だけ。人はそこに現実を感じない。

    • Φ のコメント:

      木やプラという物理的な量がなければ定規として長さを決めることはできません。実はお金もニクソンショックの時に量を放棄しました。この件は次回に書く予定です。お金は各国、通貨単位を持つにもかかわらず対応する量がありません。石油本位制と云っても誤魔化しに過ぎません。
      >落とし穴があると感じる
      ご存知の通り知能と身体は何か関係があります。五感の内に生きる私たちはどのような思考も某かの量に対応する必要があると思います。1bitの記憶にも必ず極わずかばかりの電気エネルギーが量として必要です。数値計算でこと足りると考えるならば「人の思考、あるいは知能とは何か」ということに気付かないように思います。機械で「分けることにより分かる」は代用できそうですけれど、「知:あるいは気(キ)付く」はムリです。
      >残るのは演算子だけ。人はそこに現実を感じない。
      同意です。数学は宇宙の外と考えている人が居ます。神の数式などお門違いです。E軸上の実体には、「量 対 数を含む概念や思考」の元となる何かがあるように感じます。一応これを究極の記憶装置と呼んでいます。決して数学やある種の概念で表せない「積分を伴う回転投影」の前の「何か」です。

  3. Π のコメント:

    g(グラム)って、
    基本的に
    対象と分銅を
    天秤にかけて
    両者を
    比較することによって
    得られる数値ですよね。
    そこに本当に
    g(グラム)って
    存在するのでしょうか。
    物体と物体を比較してるだけ
    ではないでしょうか。
    キログラム原器も同じです。

  4. Π のコメント:

    他のコメントと矛盾しますが、
    「数」が問題なんだと思います。

    • Π のコメント:

      何故問題か。
      数という概念は
      数字に依存しています。
      数、数字を知っていなければ、
      数、数字という概念を
      知る事はほぼ無いといって
      良いと思います。
      数、数字で
      五感でわかる物質の重さ(質量)を
      測ること(体重計)に
      果たして
      本当に
      正統性があるのでしょうか。

  5. Π のコメント:

    物質に質量を与える理論は
    五感でわかる物質の重さ(質量)を
    「量」と「数」に
    無理矢理
    切り分けたことによって
    出来上がった代物だと
    思います。

  6. Π のコメント:

    「量」と「数」は不可分であって、
    「量」も「数」も
    一つの実体の異なる側面だと思います。
    つまり
    一つの実体、即ち
    「量」と「数」を生み出す「原因」が
    存在するということです。
    その
    一つの実体、
    「原因」は「量」や「数」では
    絶対に捉えられません。
    何故ならその「原因」には
    「量」も「数」も
    存在しないからです。

    • Π のコメント:

      何故、
      その「原因」には
      「量」も「数」も
      存在しないのか。
      それは
      その「原因」は
      五感でわからない
      五感で認識できない
      からです。

      「量」、「数」、
      「物質に質量を与える理論」、
      「グラフで見る素粒子」は
      「五感で分からないものが
      無いとしか思えない」人々が
      「五感で分かるもの」のみを
      「分ける事」により
      分かろう(理解しよう)とする為に、
      「五感で分かるもの」から
      「五感で分からないもの」を
      無理矢理捉えようとしたので、
      出来上がった代物だと思います。

    • Π のコメント:

      間違ってました。
      「量」と「数」は不可分であって、
      「量」も「数」も
      一つの実体の異なる側面でしょうが、
      その一つの実体は
      「量」と「数」を生み出す「原因」
      ではなくて
      五感でわかる物質の重さ(質量)と
      五感でわからない
      「量」と「数」を生み出す「原因」
      そのものだと思います。

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